大化の改新は天皇や皇室の地位を安定させたが、律令国家としての体制が整うのは、天武元年(六七二)の壬申の乱から以後多くの権力闘争を経た、天武・持統両天皇のころになってからである。そして六八九年に飛鳥浄御原令が施行されて律令体制の基礎はほぼ整えられたが、その確立をみるのは大宝元年(七〇一)の大宝律令制定までまたなければならなかった。
律令とは、中国(唐)の法律を模範にしたもので、律は現在の刑法に相当し、令は国の組織と行政を行うための法と民法・訴訟法などにあたる。この法体系を中心として形づくられた国家の諸制度や政治支配体制が律令制度である。律令制度は、大和政権の支配者であり、畿内にその勢力の中心をもつ天皇や貴族たちが、その支配を全国に広めるとともに、より確実なものとするためにつくりあげたものである。この結果、天皇は畿内の皇族・貴族たちの権力と地位を確立するとともに、地方支配の仕組みが整備されていった。
大和政権は、国家を支配するために、全国を国・郡・里(のちに郷となる)の行政単位に区分し、人民を戸籍に登録し、良民・賤民・氏姓等の身分を証明する基本台帳とするとともに、班田の台帳にも利用し、調や庸などの租税の徴収や労役の徴発を行った。