紀元前五世紀ごろにインドの釈迦によって広められた当初の仏教は、出家した修行者中心の仏教(小乗仏教)であった。その後、仏教の改革運動が起こり、在家の信者をも含めた広範囲の人々をも対象にした仏教(大乗仏教)へと変化していった。大乗仏教がシルクロードを通り、中央アジアから中国に伝来するのは紀元前後のことであった。中国に伝えられた仏教は、経典等の漢訳がなされ、それとともに貴族、知識階級、一般民衆の信仰を得ていった。その後四世紀後半から五世紀前半には朝鮮半島の高句麗、百済、新羅の各国に伝わった。日本へは六世紀中ごろに百済を経由して伝えられた。
仏教が伝えられた当初は、仏教を朝廷で公認し、信仰を認めるか否かを巡って、貴族間に崇仏派と排仏派に分かれての激しい対立があった。崇仏派の代表は蘇我稲目であり、排仏派の代表は物部尾輿であった。その後、稲目の子孫が五八五年に用明天皇として即位すると争いは治まり、これ以後、仏教は朝廷の厚い庇護を受けることとなった。仏教の奨励に大きな役割を果たしたのは、聖徳太子と蘇我馬子である。彼らは新しい信仰をもって貴族の思想統一を図るとともに、朝廷の威力を中央・地方の貴族・豪族をはじめ民衆にも印象づける政治的な意図のもとに仏教を奨励したのである。