2図 下野薬師寺跡・西廻廊部分
3図 下野国分寺跡・金堂の基壇跡(ケヤキの大木付近)
仏教文化は七世紀後半には全国へ急速に伝播していった。下野国も例外ではなく小川町浄法寺廃寺、馬頭町尾ノ草遺跡、南河内町の下野薬師寺、宇都宮市と上三川町にまたがる上神主廃寺、真岡市の大内廃寺などの建立が発掘調査などの結果から、七世紀後半から相次いで開始されたことが判明してきている。特に、下野薬師寺は下野国出身で大宝律令の選定にたずさわり、その功績により正四位下まで昇任した下野朝臣古麻呂が一族の氏寺として建立したのが始まりであった。
その後、国家の援助を受けしだいに寺院の整備・拡張が図られるとともに、官寺としての役割を担っていったものと思われる。八世紀中ごろから九世紀半ばには畿内の諸寺院と肩を並べる、東国随一の寺院となった。このことより大和の東大寺、筑紫の観世音寺とともに戒律を授けるための道場である戒壇が設置された。このように下野薬師寺が重要視されたのは、下野国が東北の蝦夷経営と蝦夷政策の前進基地としての二つの面を併せ持っていたこととも無関係ではないと思われる。
奈良時代に入ると仏教は、さらなる保護を受けることとなった。それは、この時期に唐から天皇制の安泰を祈ることを中心とする「国家鎮護」の仏教思想が伝えられたことによる。朝廷による仏教興隆の方針は、天平一三年(七四一)に出された「国分寺建立の詔」により頂点に達した。それは、国ごとに金光明四天王護国寺である国分寺を建立し、金光明最勝王経を写しておさめ二〇人の僧を置くこと、また同時に法華滅罪寺である国分尼寺を建立することとし、妙法蓮華経をおさめ一〇人の尼僧を置くことであった。また都には総国分寺としての東大寺を建立したのである。