国分寺跡の寺地は東西四一三メートル(南辺長)・南北四五七メートル(西辺長)で溝により区画されている。伽藍地は大別すると三期の変遷が認められ、八世紀中ごろから一〇世紀前半ごろまで機能していたことが判明している。伽藍地が区画されるのは二期の段階(八世紀後半から九世紀前半)でこの時期には伽藍地の範囲は最大となり、北辺長約二三二メートル・西辺長約二四七メートル・南辺長約二三一メートル・東辺長約二五一メートルの不整形となる。堂塔の伽藍配置は、寺地の南門・南大門・中門・金堂・講堂が一直線に並び、回廊が中門と金堂をつなぐ。塔は南大門・中門の東方に、鐘楼・経蔵が金堂・講堂の東西に配置され、講堂北側には僧坊が位置する。出土遺物としては瓦・土師器・須恵器・鉄製品・墨書土器などが認められる。
国分尼寺跡は国分寺跡の東方約五〇〇メートルに位置している。寺地は東西約二一一メートル・南北約二一一メートルで溝により区画されている。伽藍地の範囲は、東西約一一五メートル・南北約二〇五メートルであり、堂塔の伽藍配置は南大門・中門・金堂・講堂が南北一列に並ぶが、国分寺跡でみられた塔はない。回廊が中門と金堂をつなぐ。鐘楼・経蔵が金堂・講堂の東西に配置され、講堂北側には尼坊が配置される。しかし国分寺跡よりはその規模も小さい。出土遺物としては瓦・土師器・須恵器・鉄製品・墨書土器などがある。
国分二寺から出土する瓦の中には、文字瓦が多数含まれている。「国分寺」「国分寺瓦」の寺の名を記したものや、「河内」「内」(河内郡)・「賀」(芳賀郡)・「都可」「都」(都賀郡)・「案ソウ」「安」(安蘇郡)・「足」(足利郡)・「寒川」『川』(寒川郡)・「那」(那須郡)・「塩乃屋」(塩谷郡)・「矢田」「矢」(梁田郡)などの郡名を記したものなどが出土している。
郡名を記したものは国分二寺建立にあたり、各郡に割り当てられたものと思われる。また、郷名を記したもの「安田後」(安蘇郡田後郷)・「赤見」「赤」「見」(安蘇郡赤見郷)や人名瓦などがあるが、その他に意味が不明な文字瓦も見られる。国分寺の瓦の生産地としては佐野市の町谷瓦窯跡・鶴舞瓦窯跡、宇都宮市の水道山瓦窯跡などが発掘調査により確かめられている。
4図 下野国分寺跡伽藍(第3期)配置図(報告書から転載加筆)
5図 下野国分尼寺跡伽藍配置図(現地説明会資料より転載加筆)