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コラム 上神主廃寺跡

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 廃寺跡は、宇都宮市茂原町と上三川町上神主とにまたがって所在することから別名「茂原廃寺」とも呼ばれている奈良時代から平安時代にかけて存在した古代の寺院跡である。遺跡の立地は、田川右岸の段丘東縁上に位置し、東に広大な沖積地を望む。現在は畑・山林等になっている。
 廃寺は明治時代に発見され、古瓦を出土する遺跡として広く知られていた。特に古瓦の中に多数の人名瓦を含み、その数は我が国の古代寺院跡から出土する瓦としては、他に比べる寺院跡がないほどの数である。日本一の人名瓦出土遺跡といっても過言ではないほどである。
 例えば、白部毛人・酒部乙万呂・雀部安万呂・大麻部古万呂・木部里足・君子古君・大部古宅・鏡部鳥・大伴部毛人・神主部牛万呂・丈部田万呂・財部忍・矢田部安万呂などの人名が記されている。これらの人名には当時の職業を意味する「部」があり、豪族に従属していた一般庶民が寺院の建立にあたり、瓦を寄進したり、負担した証として瓦に名を記したのではないかと考えられる。これら文字の記された瓦は、文字資料の少ない奈良時代にあっては貴重な資料であり、多くの情報を提供してくれる。
 上神主廃寺の創建は、当初この近辺を支配していた豪族の氏寺としての建立であったが、律令体制の整備とともに、各地の有力豪族が郡衙の郡司クラスに任命されるとともに氏寺という私的なものから、郡衙に付随する郡寺となり、公的寺院へと発展していったものと思われる。
 発掘調査は一九二二年に宇都宮市側において部分的に実施されたのみであり、その全容については不明であったが、上三川町が平成七年度から開始した発掘調査により少しずつではあるが解明され始めてきた。調査によれば、南北の規模は不明であるが、東西の規模は約二五〇メートルと推定されている。また掘込地業による建物跡が東西三七メートルの幅をもち瓦葺であったことが判明している。そのほか瓦敷遺構や掘立柱建物も検出されている。堀込地業とは、建物の基盤を強化するため、地下に穴を掘り込み、その中に改めて土を突き固めていく工事である。また廃寺の北二〇〇メートルを通過する北関東横断道路の建設予定地内の調査でも掘立柱建物跡が発見されており、周囲の状況もすこしづつではあるが明らかになってきた。
 廃寺跡から出土する瓦の生産地としては、宇都宮市中戸祭町の水道山瓦窯跡と根瓦瓦窯跡の二カ所が知られている。当初の瓦生産は水道山瓦窯跡だけであったが、需要の増大とともに根瓦瓦窯跡が構築され、両瓦窯跡から廃寺に供給されたことが発掘調査によって確かめられている。

6図 上神主廃寺跡出土文字瓦