ビューア該当ページ

芳賀郡衙跡

324 ~ 326 / 899ページ
 国府が地方行政の中心であった当時、その出先の機関として里を管理・監督していた郡役所が郡衙である。下野国には『和名類聚抄』によれば、足利郡・梁田郡・安蘇郡・都賀郡・寒川郡・河内郡・芳賀郡・塩谷郡・那須郡の九郡があり、足利郡には四郷・梁田郡に二郷・安蘇郡には四郷・都賀郡には一〇郷・寒川郡には三郷・河内郡には一〇郷・芳賀郡には一四郷・塩谷郡には四郷・那須郡には一一郷の六二郷が所在していたことが分かる。
 栃木県内における各郡の郡衙跡推定地と考えられるものには次の遺跡がある。足利郡衙には足利市伊勢町所在の国府野遺跡が、安蘇郡衙には岩舟町所在の畳岡遺跡が、寒川郡衙には小山市間々田所在の千駄塚浅間遺跡が、河内郡衙には上三川町多功所在の多功遺跡が、芳賀郡衙には真岡市京泉所在の堂法田遺跡が、那須郡衙には小川町梅曽所在の那須官衙跡が推定されている。これらの遺跡はいずれも発掘調査が実施され、掘立柱建物跡・基壇状遺構が発見され、瓦などが出土している。都賀郡と塩谷郡の郡衙所在地は現在のところ不明である。
 芳賀郡衙跡と推定されている堂法田遺跡は、当初は古瓦の出土などから寺院跡の可能性が高いとみられていたが、一九六五年に実施された発掘調査により、郡衙としての性格を強く持つ遺跡であることがわかった。遺跡は、東西一八〇メートル・南北三〇〇メートルの範囲が推定され、その区域から地固めされた基壇に礎石をのせた建物跡や掘立柱建物跡が三八棟確認されている。また、真岡市中村地区に所在する中村遺跡からも、礎石建物跡・掘立柱建物など二三棟以上の建物跡が確認されている。建物跡の存続時期については八世紀中ごろから一一世紀代と考えられている。この遺跡の性格については「郡倉別院」(郡衙の別地点にある倉庫群)ではないかと推定されている。
 芳賀郡衙跡の北約六〇〇メートルに大内廃寺がある。この寺は下野国に仏教文化が伝わった七世紀後半に建立されたと考えられ、芳賀郡内における最も古い寺院といえる。大内廃寺の建立は仏教文化の伝播とともに開始された、国内各地の有力豪族による寺院建立ラッシュの一つであった。寺院の建立には膨大な費用や労働力の確保、また寺大工・瓦職人等の技術者の確保なども必要であったものと考えられる。このような財力・経済力や労働力の確保など、かなりの政治的な力を持つ人物の存在なくしては達成できないものであったと言える。おそらく芳賀郡全体に命令することができる芳賀郡衙の有力な郡司クラスの関与があったものと思われる。

7図 堂法田遺跡遺構配置図(報告書より転載加筆)