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古代の高根沢

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 現在の高根沢町は塩谷郡内の町として行政上での区分がなされているが、古代における高根沢は鬼怒川以東の地域を括る芳賀郡に含まれていた可能性が高い。『和名抄』によれば、芳賀郡内には古家郷・広妹郷・遠妹郷・芳賀郷・若続郷・承舎郷・石田郷・氏家郷・丈部郷・財部郷・川口郷・真壁郷・新田郷の一四郷が所在していたが、これらの郷が現在のどの地域にあたるのかは明確にできない。しかし、芳賀郷については真岡市の中央部に、氏家郷は氏家町氏家付近に、川口郷は茂木町飯野の川口に、新田郷は氏家町鍛冶ケ沢から南那須鴻野山付近に比定されている。新田郷は、東山道の新田駅家との関係も考えられており、南那須町長者ケ平遺跡からは焼米の出土が知られている。東山道の通過ルートは町北部を斜めに横断し、氏家町と南那須町の町村境へ進むと推定されている。またこのルート上では発掘調査により道路遺構の存在も確認されている。この付近においては氏家町の竹橋遺跡、町内の砂部遺跡などが発掘調査され、古代から人々の集住する地域であったことも知られている。このような地域のあり方を考えた場合、現在は塩谷郡の南部に位置する高根沢町も、古代においては南那須町・氏家町とともに、芳賀郡の郡域の北部域に相当していたものと考えられる。その後、平安時代末から中世には律令制度の下での芳賀郡から離れ、新郡の氏家郡が成立するとその郡域に含まれていったものと思われる。このことは、天文四年(一五三五)一一月の宇都宮俊綱安堵状写(内宮神官所持古文書)に「氏家郡内之内栗島郷」などとあり、この粟島郷が町内粟ケ島一帯と考えられることからも明らかであると思われる。