8図 法隆寺式伽藍配置模式図
廃寺跡は、真岡市京泉地内にある。下野国に仏教文化が伝わり、国内の各地に寺院が建立されはじめた七世紀後半の創建と考えられる、芳賀郡内最古の寺院である。
廃寺跡は、市内から北に約四キロの五行川左岸の低い台地上に立地している。その一部は栃木県の指定史跡となっている。
廃寺跡の現況はそのほとんどは水田となっているが、塔跡・金堂跡と推定されるところには山林となっている。寺域については、発掘調査などが実施されていないため正確な範囲についてはわかっていないが、周辺の地形や地割りなどから約一町(約一〇〇メートル)四方ではないかと考えられている。金堂跡と推定されている基壇上には一三個の礎石が残されており、これらから考えられる建物は正面が五間(約一三メートル)で、側面が四間(約一〇メートル)ほどであったと推定される。塔跡と考えられる基壇上には、中央に直径一八センチ・深さ一〇センチの円柱状に掘られた心礎が据えられている。
これ以外の建物については確認されていないが、東に金堂跡が、西に塔跡が並ぶ位置関係から、法隆寺式伽藍配置であったと考えられる。
廃寺出土の瓦については、軒瓦の文様から三期の変遷が考えられている。またその瓦の一部は益子町の西山窯跡で焼かれていたことが判明している。またこの窯跡で焼かれた瓦は、真岡市の堂法田遺跡、中村遺跡、下野薬師寺跡、国分二寺にも使用されていたことが確認されている。
9図 大内廃寺跡