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掘立柱建物群

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10図 掘立柱建物跡(左)と想像復元図(『多功南原遺跡』より)


11図 砂部遺跡 I区掘立柱建物跡集中区(口絵写真)

 掘立柱建物は、半地下式の竪穴住居とは違い柱を埋める穴だけが地下になり、床は地面あるいは少し高めた(高床式)ものである。発掘調査では柱穴の配列が出てくるだけで、それを結んでいくと四角い枠ができる。それがほぼ建物の規模と想定できる。建物の呼び方は、長い辺(桁行)の柱と、短い辺(梁間)の柱の間の数と長軸の方向で表す。10図でいえば、桁行三間、梁間二間の東西棟ということになる。柱の立て方は、外側だけのものを側柱式建物、内側にも柱を持つものを総柱式建物と呼んでいる。
 近畿地方などではこの時代には住居もすべて掘立柱建物になっているが、東国の集落にあっては依然として竪穴住居が主体であった。したがって掘立柱建物は住居とは別の性格も考えられる。特に総柱式で大規模な建物は高床式と推定され、床を高くすることで湿気を防ぎ、重みに耐える、つまり米などを貯える倉などの機能が想定できよう。側柱式建物は、土間であった可能性があり、倉のほか集会所的なものとも考えられる。ところで、この遺構は柱穴だけ、しかも柱をすえると穴に土を埋め戻すので、遺物が出てくるのはまれである。そのために細かい時期の認定が難しい。そこで、他の遺構との重複、建物の向き、柱穴が並ぶ軸線、柱穴の形の共通性などから時期を求めることになる。
 砂部遺跡の掘立柱建物跡について具体的に見てみよう。まず、建物の向きは、東西に長いもの(東西棟)と南北に長いもの(南北棟)があるが、南北棟が圧倒的に多い。そして東西棟は北へ、南北棟は西へ軸線がそれぞれ偏り、両者の方位の振れはほぼ対応する。重複関係からは、北ないし東へ振れるものが古く、新しくなるにつれて真北、真東に近くなる。建物は、三間×二間が三一棟、二間×二間が一三棟、一間×一間が三棟ある。古代の場合は、側柱式で三間×二間が主体といえる。
 次に平面規模をみよう。面積では概ね二〇平方メートル以下、二二~三〇平方メートル、三〇~四五平方メートルの三つのランクがある。規模の小さなものは、柱穴が小さく円形をなし、中形は柱穴が大きく方形のものである。この中形はⅠ区にある建物のほとんどが相当する。大規模なものは、Ⅰ区のなかでも数例みられるのみである。
 このような観察結果から掘立柱建物跡群を分析してみると、多数集中しているようにみえるが、細かくは五時期程度の変遷が認められ、同時に建っていたのは四~五棟程度と想定される。その移り変わりの間に建物の方向が少しずつずれ、位置もⅠ区中央から東へ配置を移動している。もちろん掘立柱建物のみでこの地区が占められていたわけではなく、何軒かの竪穴住居とセットになっていたと想定される。
 その他に、遺構として注目されるのは、竪穴状遺構としたものである。Ⅰ区で五基認められ、いずれも掘立柱建物跡の近くにある。一辺が二~三メートルの歪んだ方形で、深さ一メートル前後ある。大きな特徴は、底面が地山の粘土層まで達し、この部分が大きくえぐれる。そして掘られた後、埋め戻しされた状況がうかがえることである。これらは、粘土を採掘する目的で作られ、その粘土は建物の壁体の一部に使用されたと推定される。