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下野国の駅家

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 駅制とは大化改新(六四五)後に、中国の唐の制度を日本に取り入れた都と地方を結ぶ、交通・通信の制度である。大宝律令(七二〇)により、駅馬・伝馬の制が成文化された。これ以降に駅伝制は全国的に整備されていったと考えられる。
 駅制では約三〇里(約一六キロ)ごとに駅家が置かれ、駅家には事務等を行う駅長のほか、大路には二〇疋、中路には一〇疋、小路には五疋の馬が常備されていたが、これらを利用できるのは、役人の乗用や税の運搬などの公用のみであった。
 下野国内には、足利郡を含め九郡が置かれていた。そのうちの五郡に駅家が設置されていたことが記されている。五郡に置かれた駅家は、都に近い位置から、足利郡足利駅、都賀郡三鴨駅、河内郡田部駅と衣川駅、芳賀郡新田駅、那須郡磐上駅と黒川駅である。その先は陸奥国へと続いてゆく。これら七ヵ所の駅家について、現在までにその所在が判明しているものはない。しかし、発掘調査や遺跡からの採集遺物などより、その可能性が考えられる遺跡がある。下都賀郡岩舟町所在の畳岡遺跡はその一部が発掘調査され、瓦の出土等から都賀郡の三鴨駅に、以前から人名瓦を多数出土する遺跡として全国的に著名な、河内郡上三川町所在の上神主廃寺跡を中心とする一帯が河内郡の田部駅に、焼米が以前から大量に出土することで知られる那須郡南那須町所在の長者ケ平遺跡が芳賀郡の新田駅に考えられているが、現在のところ推定の域を出ない。