現在までに県内で発掘調査された一一の遺跡を“点”として考え、この“点”を結んでみると県央部における東山道が“線”として連続することが明らかになってきた。県央部を通る東山道は、いくつかの大小河川を渡河し、沖積地、台地を通過している。東山道が高根沢町に入る場合も、鬼怒川を渡らねばならなかったことは、さけられないことだった。鬼怒川の渡河地点は、今のところ白髭神社付近に設定するのが最も渡河しやすかったのではないかと思われる。地図を広げてみていただければわかることなのだが、南流してくる鬼怒川と、鬼怒川によって形成された沖積地が最も幅の狭くなるのが石神と河内町東岡本間であることがわかる。当時の鬼怒川は、現在のように堤防の間を流れ下るのではなく、低地幅にいく筋もの流れに分かれていたようだ。また水量も現在よりもはるかに多かったものと思われる。川幅と低地が狭い、ということは、台地上から渡河先も確実に望見することが可能であり、渡河先を見失うことはないのである。特に都から東山道を下ってきた場合に、石神にみられる台地は、垂直に切り立った崖線をみせており、渡河先の目印としてはこれ以上の目印はなかったとも考えられる。
東山道の建設目的は、蝦夷の反乱に対する軍事目的のために作られたとする説が有力である。これを裏付けるように、県内各地から発見された東山道は直線的に延びていることが判明している。最近、新聞紙面をにぎわした杉村遺跡(宇都宮市)で発見された東山道は、約四六〇メートルの長さの直線道路として、私たちの目の前に往時の姿を現してくれた。直線的な道作りは、軍隊やそれに伴う各種の物資の迅速な移動を可能にすることができた。移動には安全と確実性を要求されたのはいうまでもない。特に川を渡るということは、かなりの困難を伴ったことで、現在の私たちでもその様子を想像することができる。
東山道のひとつの機能が、軍事的なものであることは前述したが、このことに関係するひとつの事実が発見されている。宇都宮市所在の国指定史跡の飛山城跡から発見された墨書土器である。坏に「烽家」と墨書されたもので九世紀の所産である。「烽家」の文字から、この地に「烽」に関する施設の存在が想定される。地形上、石神の台地上と飛山城跡の間にはさえぎるものがなく、烽を望見することが可能なのである。
石神の地は現在、国道四号線とJR宇都宮線が通過しており、国道四号線からは、烏山方面、真岡方面への主要地方道が分かれて延びており、また、JR宇都宮線からJR烏山線が分かれるのも宝積寺駅からである。このようにみると、石神の地は古代から現代にいたるまでの重要な交通の要所であったことが知れるのである。
21図 推定東山道の鬼怒川の渡河地点(現在も交通の要所)