23図 郭内遺跡(石橋町)の蔵骨器出土状態
古代において、仏教の伝来とともに日本で本格的になった火葬の風習により、火葬された人骨を収める容器をさす。現在は通称的に骨壺(土製)と呼ばれるものである。蔵骨器は、土・金属・石・ガラス等により、その目的のために作られるが、火葬の風習が一般化するに伴い、日常什器を蔵骨器に転用する例が多く認められるようになる。土師器、須恵器の甕や壺を蔵骨器の本体に、蓋や坏や皿を本体の蓋がわりに用いる組合せが一般的である。
現在までに県内から発見された古代の蔵骨器は、約七〇例を数える。時期的には八世紀から一〇世紀前半にあたるが、一般化するのは九世紀代である。約七〇例の蔵骨器は、鬼怒川を境にして、東と西ではその様相に違いがあることが知られている。東側では須恵器を利用した蔵骨器が、西側では土師器を利用した蔵骨器が多く出土する。この違いについては現在のところ明確にはなっていないが、鬼怒川が人間や情報の往来を阻害したのではないかと考えられている。そのために、日常什器を蔵骨器に転用する際に、土師器を多用する地域と須恵器を多用する地域に分かれていったのであろう考えられるのである。
参考・引用文献
井上 清 一九六三『日本の歴史 上』岩波新書
岡崎文喜・塙静夫 一九八一 『下野の古代文化』第一法規
金坂清成 一九七八「下野の国」『古代日本の交通路Ⅱ』大明堂
柏書房 一九八二 日本歴史地図『原始・古代編 下』
菊井和美ほか 一九九〇『砂部遺跡』栃木県教育委員会・(財)栃木県文化振興事業団
鬼頭清明 一九八八『古代のムラ』岩波書店
木下 良 一九九六「古代道路研究の近年の成果」『古代を考える古代道路』吉川弘文館
小学館 一九九三 日本歴史館
高島英之 一九九四「古代東国の村落と文字」『古代王権と交流』二 名著出版
田熊清彦 一九九〇「堀越遺跡と墨書土器 下野国塩屋郡成生庄家小考」『峰考古第八号』宇都宮大学考古学研究会
仲山秀樹 一九九七 「出土文字資料にみる「門」と「家」」『研究紀要』第五号(財)栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター
栃木県立しもつけ風土記の丘資料館 一九九二『第-企画展古代の役所 下野国府とその周辺』栃木県教育委員会
栃木県教育委員会 一九七三『下野薬師寺跡発掘調査報告書』
栃木県教育委員会 一九七九~一九八七『栃木県埋蔵文化財調査報告 下野国府跡Ⅰ~Ⅶ』
栃木県教育委員会 一九八五~一九九七『栃木県埋蔵文化財調査報告 下野国分寺跡Ⅰ~ⅩⅡ』