今宮祭祀録(氏家町 西導寺蔵)
1図 後三年合戦絵詞(写本 栃木県立博物館蔵)
古代の律令国家体制は、一〇世紀に入るとその土地制度が解体し、荘園の増大と合わせて国司の支配下にある公地も大きく変質した。国―郡―郷の体系に基づいていたはずの公地の枠組みがはずれ、各国内には旧来の郡・郷の他に、新たな郡・郷・保・院・名などの単位の土地が開発に伴って成立し、それらを開発した開発領主たちは、郡司・郷司などに任命されることで官物公事(税や課役)を徴収して国衙に納める権利を得るようになった。このような新しい郡や郷は、半ば公領が私領化される中世的な国衙領ともいえるものであった。
開発領主たちはその地方に古くから根をおろしていた地方豪族、あるいは国府の政庁に勤めていた在庁官人とよばれる人々やその縁故者たちであったが、彼らはさらに別な手段として、開発地を国司の収公(租税や土地を没収すること)から免れるために中央の権門貴族に寄進して荘園とし、自らは荘官(下司)となって在地での支配を固めることも盛んに行われるようになった。いわゆる寄進地系荘園の激増である。
このような在地領主層は「侍」(=武士)と呼ばれ、一族郎党や下人、さらには浮浪人などを労働力として編成してさらなる開発を推進し、しだいに武士団を形成するようになるのである。鎌倉末期の書『沙汰未練書』に「侍トハ開発領主ノコト也」とあるように、公領や荘園を所領として支配した郡司や郷司、荘官たちが、同時に在地を支配する武士団を形成し、古代社会を崩壊させて中世世界を築く原動力となったのであった。
すなわち侍は一方では「兵」として、つまり武力・軍事力を備えることによってさらに成長し、しだいに中央政権を脅かす存在となって来たのであった。天慶三年(九四〇)、平将門の東国での軍事反乱を鎮定したのは下野国押領使藤原秀郷であり、その後、秀郷流の藤原氏の一門は兵としての実力を早くから培って、やがてその子孫たちは、足利・小山・長沼・佐野・結城など平安末期から鎌倉初期にかけて下野国内で重要な役割を果たした武家となった。また、一一世紀の前九年・後三年の役で奥州の安倍・清原氏の反乱を鎮定したのは源頼義・義家父子であり、この後源氏は東国の武家の棟梁としての地位を確たるものにしたのであった。その源義家の子源義国の遺領の一部である足利を受け継いだ足利義康は、北面の武士として鳥羽法皇に仕え、後に保元の乱(一一五六)という皇室や藤原摂関家内部の争いでは、平清盛や源義朝らとともに一族を率いて活躍し、その功によって従五位下検非違使に任命されるなど、中央で活躍する軍事貴族でもあった。
そして保元の乱の後、平治の乱(一一五九)によって平氏が源氏を打ち破り、平氏の政権が全盛を極めたのであったが、やがて源氏による平氏打倒の火ぶたが切って落とされ、ここに中世の開幕を迎えるのであった。