頼朝は源頼義以来の由緒を持つ鎌倉を本拠と定めた。前九年の役の後、頼義は石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を鎌倉郷由比に遷座し、義家は後にこれを修復していたのであった。頼朝は、大蔵山の麓に鶴岡八幡宮を移して鎌倉の中心とした。鎌倉には頼朝の居館が設けられ、頼朝は「鎌倉殿」と称された。そして東国における軍事政権がゆるぎないものとなるにつれて、東国の武士の多くが次々に鎌倉殿の召に対して服従を誓ったり、参上して拝謁し、領地の所有権を承認してもらう文書(下文)を賜ることで頼朝の御家人としての身分関係を結んでいった。
一方、平家追討の戦いは、元暦二年(一一八五)の壇ノ浦の戦いで終止符を打つまで長期間に及んだが、その間頼朝は、東国を離れる(一一八四)には公文所・問注所を設置して政務機関を整え、翌年には、平家追討の過程で勢力下となった諸国に配した有力御家人に対して、守護と地頭という新しい職ことなく着々と鎌倉の政権の基礎を固めていった。治承四年(一一八〇)にはすでに御家人統制のために侍所を設置、元暦元年(に任命することの勅許を得て、一挙にその支配権益を拡充したのであった。
そして文治五年(一一八九)には、奥州藤原氏との戦いのため頼朝は自ら遠征してついに征服し、東国の覇者として鎌倉に凱旋をした。そして建久元年(一一九〇)には政所を新設、同三年には頼朝は征夷大将軍に任じられ、ここに名実ともに鎌倉幕府が成立することとなった。
こうした平家追討の戦い(治承・寿永の内乱)及び奥州藤原氏との戦い(奥州合戦)では下野の武士たちもいやおうなく参加することになり、その過程でしだいに鎌倉幕府のもとに統制されるようになり鎌倉御家人として地歩を固めていった。ちなみに秀郷流の藤姓足利氏は早くから平家方に与したこともあって没落し、郡内の棟梁といわれた勢力は消滅した。それと対照的に、秀郷流の武士の中で特にすぐれた戦功があった小山氏は、以後下野の筆頭格の御家人としての待遇を受けるようになった。このように鎌倉政権の成立段階の軍事行動がその後の御家人としての伸長に大きくかかわっていたことは明らかである。
2図 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)