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下野の御家人たち

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 下野には幕府が成立する以前から武士たちがすでに勃興していたが、そうした下野の主な武士たちを列挙すると、足利荘や簗田御厨を基盤にして興った源氏の流れをくむ源姓足利氏、足利郡の郡司として同じ足利地域で源姓足利氏と勢力争いをした藤原秀郷の流れをくむ藤姓足利氏、藤原秀郷流の武士団の中で下野国庁の在庁官人として伸長し、国庁付近の国衙領や小山荘(寒河御厨)を地盤として興った小山氏、山内須藤(首藤)氏の系譜を引くと称して那須地域を本拠に勢力を得ていた那須氏、そして前九年の役(一〇五一~六二)で東国に下向した源頼義に従軍した調伏祈禱僧の宗円を祖と伝え、この宗円を藤原鎌足の子孫藤原道兼の曾孫と称することで藤原道兼流の系譜を引くといわれる宇都宮氏などがあげられる。
 鎌倉幕府が成立すると、下野内の武士はそれぞれ軍功に基づき先祖からの譜代の地を本拠地として承認(本領安堵)され、その地名を名字として名乗り御家人として登録されることになった。さらには朝廷方と戦って勝利した承久の乱(一二二一)などでの勲功によって新たな所領が給され(新恩の地)、下野の武士たちも下野国内にとどまらず全国的に所領を与えられることになり、一挙に飛躍したのであった。そうした所領の権益は、守護や地頭という職に任じられることによって内外に明確にされたのであった。
 まず下野の御家人の筆頭格であった小山氏では、嫡子の朝政が、下野国と播磨国守護とその両国内の地頭職をはじめ、武蔵国・陸奥国・尾張国などにいくつもの地頭職を与えられている。さらに朝政の弟宗政は長沼を本拠として長沼姓を名乗り、下野国御厩別当職をはじめ、摂津国や淡路国の守護・地頭に任じられたり、美濃・陸奥国内の地頭職を賜っている。末弟の朝光は結城を本拠に結城氏を名乗り、かつて母の寒河尼が将軍頼朝の乳母をつとめた関係で、頼朝に烏帽子親(元服の時に仮の親として名前の一字を与える)を勤めてもらったことなどから頼朝の近待衆として、以後幕府内でも独自の立場を維持した。
 源平の合戦及びその後の志田義弘の乱によって藤姓足利氏は滅亡したため、名実ともに足利荘を掌握した源姓足利氏は、源義家流の源氏一門であることや、当主足利義兼の母が熱田神宮宮司の娘で将軍頼朝の母と姉妹であり、さらには義兼夫人と頼朝夫人が北条時政の娘で姉妹同士ということもあり、幕府の御家人内では最上位にランクされるほどの家格にあった。
 しかしそうした家格のため、有力御家人排除が度重なる幕府内での立場は微妙でもあったがよく克服し、義兼の子義氏の時には足利荘のほかに上野・上総・三河・美作・陸奥などの諸国に所領を広げ、上総国や三河国の守護にもついた。義氏は幕府の宿老(老巧な重臣)として一族を指導し、子供の長氏・泰氏、孫の家氏・兼氏など一門が幕府に出仕して、幕府内の有力御家人としての足利氏の地歩を築いた。
 また、『平家物語』で伝えているように、那須与一が源平の合戦の屋島の戦いで見事平家方の扇の的を射たことで一躍名をはせた那須氏の場合、御家人としては、建久四年(一一九三)那須光助が源頼朝が那須野原で巻狩をした際に準備や経営を勤めたことで経営料として下野国北条内一村を与えられたり、巻狩の最中に頼朝に駄餉(旅先での食事)を献上したりしてその地位を確立していった。
 宇都宮氏については次項に述べるが、その他の下野の鎌倉御家人としては、『吾妻鏡』によると、阿曽沼氏、小野寺氏、氏家氏、芳賀氏、益子氏などがあげられる。

3図 足利義兼画像(足利市鑁阿寺蔵)