現在の宇都宮二荒山神社の主祭神は崇神天皇の皇子豊城入彦命を祀ると伝えられ、この豊城入彦命は古代に下野を支配した下毛野氏の祖とされるという。そうした神社の起源については史料の制約から社伝によるほかないのであるが、現在の二荒山神社の社名の起源は、延長五年(九二七)に成立した『延喜式』に基づいている。すなわち同書の中で、全国の神社と神名、社格などを明記した「神名帳」という項目に、下野国内の一二の神社の中で「河内郡一座 大 二荒山神社 名神大」と記載されている。「大」という社格は下野国内の第一位に位置づけられていることを示すもので、河内郡の二荒山神社が今日の宇都宮二荒山神社であるという根拠となっている。(ただし、この『延喜式』の二荒山神社について、日光の二荒山神社と考える説もあるが、河内郡と明記してあることが強い根拠となっている。)
しかし、冒頭に紹介したように少なくとも平安末期ごろからは二荒山神社という呼称を示す史料は確認されず、一般には「宇都宮」若しくは「宇都宮明神」などと呼称されていたようである。そして、信仰の性格としては、戦勝や武人を加護する神として崇敬されていたと思われる。
例えば、『平家物語』の有名な扇の的を射る場面で、那須与一宗隆は「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくはあの的の真ん中射させてたばせ給え」と祈っており、武神として広く武人に信仰された八幡大菩薩とともに祈願の対象となっている。また、鎌倉期には宇都宮一族の私歌集である『新○和歌集』(○の部分には当初「式」の文字があったが、なんらかの理由で「式」の文字を除去することになり、保留の意味で○の表記をあてている。)に「東路や多くの蝦夷平らげて、叛けば討つの宮とこそきけ」と詠まれているように、「宇都宮」と「討つの宮」とをかける発想も見え、武神的性格をもつ宇都宮明神の信仰を物語っている。
こうした宇都宮明神の性格は、祭祀に際して捧げられる神饌(供物)の形態からも考えることが出来る。例えば、承久元年(一二一九)に成立した『続古事談』では、宇都宮明神の神饌について「狩人鹿の頭を供祭物にすとぞ」と記しており、弘安六年(一二八三)に無住が著した『沙石集』の「生類を神に供る不審之事」の条で、「信州の諏訪、下野宇都宮、狩を崇ぶとして鹿鳥なんどを餉る」とあるように、諏訪明神と同様に、鹿・鳥などの動物を神饌として奉ずることが宇都宮明神の特徴として知られていたようである。
このように生類を供物として捧げることは狩猟神の信仰にもつながることであり、同時に弓矢を重んじる武士の信仰とも結びつくものであるといえよう。(『宇都宮二荒山神社誌』宇都宮二荒山神社発行)
ところで、中世においてこうした宇都宮明神の祭祀を司るうえで中心的な役割を担ったのが宇都宮氏であった。宇都宮氏と宇都宮明神の関係の始まりを示す史料は必ずしも十分なものではないが、『吾妻鏡』の元暦元年(一一八四)五月二四日の条で、宇都宮朝綱が「伊賀国壬生野郷地頭職」を与えられている記事が見えるが、そこでは補足説明として、これは「宇都宮社務職」は従来からの宇都宮氏の権利として当然のことであるから、それとは別に新たに「新恩」を加えたものである旨を記している。このことは、宇都宮社務職という所職が、宇都宮氏の本拠地に関わる権利として最も重要なものであると認められたことを示すものであろう。
そして宇都宮の社壇(神社を構成する組織全体)は、源頼朝による武家政権の発足にともない、その重要度も増すことになった。文治五年(一一八九)源頼朝は奥州遠征の途上、宇都宮に奉幣して戦勝を祈願し、成就の暁に捕虜一人を神職として奉ることを神前で誓い、奥州藤原氏平定後の帰路にその約束に従って社領を寄進した上で、捕虜の樋爪俊衡一族を宇都宮社の職掌としている。
そしてこの頼朝の奉幣は「順道の御参詣に非ず、偏に御報賽の為なり。(単なる道すがらの参詣ではなく、祈願成就に報いるためのものである。)」とわざわざ断っている(『吾妻鏡』)。
このように宇都宮明神は、武人の崇敬する神を祀る社壇として重きをおかれることとなり、その社壇の名を名字とし、社務を司る御家人宇都宮氏は、自ずと宇都宮明神と切っても切れない関係をもとにいわば「神官御家人」として発展していったのである。
4図 中世期の宇都宮明神の図(『日光山并宇都宮明神縁起絵巻』より 愛媛県大洲市宇都宮神社蔵)