5図 宇都宮系図(京都市三鈷寺蔵)
こうした宇都宮氏であるから、その出自についての伝承も神官としての性格を物語るものとなっている。
宇都宮氏の系図には諸本があるが、各種の系図によれば、大織冠藤原鎌足の子孫粟田関白道兼流で、道兼の曾孫の宗円を宇都宮氏の祖とするものが多い。この宗円について、『尊卑分脈』という比較的史料価値が高いとされる系図によれば、「宇都宮座主、宇都宮・小田等の祖」としている。また『続群書類従』に収録されている「宇都宮系図」などをはじめとして、『下野国誌』という江戸期に編さんされた史書に見える系図などでは、もと石山寺(近江)の座主で、奥州の安倍貞任・宗任らの乱(前九年の役)に際して源頼義・義家父子のもとに調伏祈禱のため従軍下向し、宇都宮にて祈禱した結果、戦に勝ったので、そのまま宇都宮に土着して宇都宮座主になったという伝承が記されている。
宗円については、あくまでも伝承の域を出ないが、宗円の子とされる宗綱にしても不明の点が多く、宗円と益子権守紀正隆の女との間の実子とする説(『下野国誌』)や、中原宗家の子で宗円の兄の藤原兼仲の養子に入った後に宗円の養子に入ったとする説(『尊卑分脈』)など一定しない。ただ、『尊卑分脈』によれば、宗綱に「八田権守」と称していることで、その子の朝綱や知家のいずれも八田を号しているのが注目される。諸系図では、宗綱は常陸大椽平棟幹の女を迎えて朝綱・知家を生んだとあり、当初常陸の八田を本拠としていたというのが有力な見方であろう。
そうして考えてみると、前述したように朝綱が宇都宮社務職を承認される以前のある時期に、八田氏の一族の中から、宇都宮明神の社務職について本拠を宇都宮に移していた人物がいて朝綱に引き継がれていたということも出来よう。
しかし、いずれにしても宇都宮氏として明確に史料に出現するのは朝綱以降のことであり、それ以前のことについてはあくまでも不明とする他はない。ただ、朝綱は元暦元年に宇都宮社務職を安堵された時には「左衛門尉藤原朝綱」とあるように自らを藤原氏を出自として名乗っていたことは事実ではある。