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東国御家人の雄

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 朝綱によって獲得した御家人宇都宮氏としての地位は、当初はかならずしも安定したものではなかった。建久五年(一一九四)五月。朝綱は下野の国司藤原行房によって公田一〇〇余町歩を押領したとして朝廷に訴えられた。その結果、七月に至り、朝綱は土佐(高知県)へ、嫡孫頼綱は豊後(大分県)へ、頼綱の弟朝業は周防(山口県)へ流罪という朝廷の裁定が下された。その嫌疑の真相については不明であるが、幕府草創期の最中に幕府と朝廷との土地に関する実務の混乱から生じたトラブルとも推察できる。その後ともかく罪は許されて下野に帰国することか出来た。しかし、惣領(武士団の一族の長)である朝綱は家督を孫の頼綱に譲り、自らは出家して大羽(益子町)に退き、尾羽寺(地蔵院)を建てて元久元年(一二〇四)に死去した。
 ところが、今度は頼綱が幕府から謀反の疑いをかけられるに至ったが、頼綱は郎従(家臣)六〇余人とともに出家して幕府に異心のないことを示した結果、かろうじて頼綱の謀反の疑いが晴れることとなった。この事件も鎌倉政権内の権力闘争の余波を受けて起こったもので、幸いにも頼綱は危機をしのぐことになった。
 出家して蓮生と称した頼綱は、事件後も幕府への出仕を続けた。承久三年(一二二一、後鳥羽上皇方が幕府打倒のため挙兵したため勃発した承久の乱に際しては、頼綱は鎌倉に留まったが、子の頼業や時朝は京都の宇治橋の合戦で活躍した。そのため頼綱には伊予国(愛媛県)の守護職が与えられた。以後、伊予国守護は鎌倉末期まで宇都宮氏に相伝された。また宇都宮氏は美濃国の守護職にもついており、東国御家人として、全国の舞台に躍りでることになったのである。
 頼綱以後の宇都宮氏は幕府内の有力御家人としての伸長がめざましく、頼綱を継いだ泰綱は、寛元元年(一二四三)、鎌倉幕府内で執権とともに裁判・政務をつかさどる重要な機関であった評定衆の一員として勤め、幕府の高級官僚として活躍した。さらに泰綱の跡を継いだ景綱は、廂番・御格子番・昼番などの日常的に将軍の側近に仕える近侍衆に任じられたり、文永六年(一二六九)には引付衆(幕府の訴訟を扱う担当職)、同一〇年には評定衆に加えられ、永仁元年(一二九三)から同六年(一二九八)まで引付頭人(引付衆の筆頭者)もつとめた。
 このように幕政の中枢で活躍する有力御家人として宇都宮氏は定着したのであるが、さらにはそうした背景のもとに、自らの領内における所領支配を規定した武家法を整備したのであった。「宇都宮家弘安式条」と通称するこの武家法は、鎌倉幕府の基本法典であった『貞永式目』の制定後丁度五〇年後に景綱によって制定されたものであった。条文は全七〇カ条にわたり、寺社に関する規定二四カ条、裁判方法に関する規定二カ条、相論・訴訟に関する規定一一カ条、幕府との関係を示す規定二カ条、一族郎党の統制に関する規定三一カ条というもので、全国の武家法の中でも高い水準にあると評価されるものである。
 ここではその内容について触れる余裕はないが、宇都宮氏が宇都宮社務職をつかさどる神官としての性格を色濃くしながらも、一方では幕府の政務の実務に関わる高級官僚としての実力を背景に領内の統制整備に努めた鎌倉御家人の一典型としてみることが出来よう。

6図 源頼朝の墓(神奈川県鎌倉市法華堂跡)