先に紹介したように「宇都宮家弘安式条」(以下「式条」)によって一族郎党への統制の指針が示されていたのであったが、当主の宇都宮氏を頂点とした宇都宮一族の様子はどのようなものだったのだろうか。以下見ていこう。
まず、三代朝綱の時文治五年(一一八九)、奥州藤原氏打倒の遠征に向かった下野の御家人の中に、宇都宮朝綱の「郎従」として「紀権守(益子正重)」と「波賀次郎大夫(芳賀高親)」らの名前が認められる。後に『太平記』などで「紀清両党」と呼ばれ、宇都宮氏の両翼を担う重要な家臣として名をはせた益子氏(紀氏)と芳賀氏(清原氏)は、すでに当初から有力な郎従の位置を占めていることがわかる。
そして、鎌倉期に宇都宮氏から派生した主な支族としては、三代朝綱の子(公頼)から始まると伝える氏家氏、四代成綱の子(朝業)に始まる塩谷氏、さらに朝業の子の時朝を祖とする笠間氏、五代頼綱の子の頼業を祖とする横田氏、同じく頼綱の子(宗朝)を祖とする多功氏、七代景綱の子(泰宗)を祖とするか武茂氏などがあげられる。さらには、各支族からさらに支族が生まれている。鎌倉期に既に苗字を名乗った支族には、例えば、武茂泰宗の子の景泰の子(綱景)に始まる西方氏や、氏家公頼の子(高信)に始まるとされる中里氏などが知られる。
「式条」によれば、宇都宮氏の惣領が「宇都宮検校職」(検校は寺社の最高責任者の呼称の一つ)の地位にあり、宇都宮の神事・神領・神官などの宇都宮社壇(宇都宮明神を構成する組織全体)の全てにわたる支配・運営権と社祠宇都宮の代表権を取りしきっていた。そして、この宇都宮検校職を中心とした宇都宮の内部組織は、大きく神官層・僧徒層・宮仕層に分けられることがわかる。
まず神官層は、宇都宮検校を筆頭に、宇都宮氏を出自とする「一門方々」(一族)からなり、「式条」の一九条によれば、神官の定員は一二名であった。実際、神官には東上条・氏家・西方・笠間・西上条・武茂氏などの宇都宮の庶子家の者がついていたようである(「式条」一〇条)。そして末社の神官もこれらの諸氏が勤めていたと考えられる。なお、これらの宇都宮一族各氏は、それぞれ御家人として惣領宇都宮氏とならんで鎌倉に参勤して居住し幕府に出仕する身分でもあった(「式条」七条)。
次に僧徒層は、神宮寺に常住する五口の供僧をはじめとする大衆と、宮中の念仏堂に止住する念仏衆(時衆)からなっていた(「式条」一〇、一一条ほか)。僧徒層もまた多くが宇都宮一族の出自であったようであるが、神官を兼ねることは許されず、神官層より一段下位に位置していたようである。さらに宮仕層は幅広い階層ではあるが、上層部は「伺候之輩」と称されるように、宇都宮氏に臣従する領内の領主層で、代表的なものは益子・芳賀両氏などであったと思われる。下層部には職掌と宮仕下部があり、職掌は社壇に隷属し、通常の社務にかかわる庶務全般を取りしきる役職で、源頼朝によって宇都宮の神職とされた奥州藤原泰衡の旧臣樋爪一族がこの立場に置かれた。下部は職掌の下で手足となって働く下層の構成員であったが、一般の庶民よりは社会的地位が高く、宇都宮の権威を背景に所領を獲得したり経営するものもあったという(『栃木県史』通史編3・中世参考)。
このように、宇都宮氏は、宇都宮明神の社壇経営の関係を通して、一門・被官の結合・統制を進めていた。
7図 宇都宮朝綱像(『下野国誌』より)
8図 宇都宮二荒山神社(宇都宮市)