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「氏家郡」の領主

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 先に述べたように、古代末期から国―郡―郷の体系に基づいていたはずの公地の枠組みがはずれ、各国に旧来の郡・郷の他にも新たな郡や郷が多く成立するようになった。そうして出来た新しい郡・郷は、本来律令国家体制下で公領であった土地が半ば私領化されるもので、「中世的私郡」というべきものである。
 『和名類聚抄』によれば、下野国内には、公地公民制に基づく郡は九郡(足利・梁田・安蘇・都賀・寒川・河内・芳賀・塩屋・那須)であり、郷数は七〇を数えていた。しかし中世に入ると、芳賀郡内からは真壁郡と長沼郡が出現し、さらに真壁郡が東西真壁郡に分かれ、さらに東真壁郡から茂木郡が分出し、この茂木郡も東西に分かれるといった具合である。また同様に、那須郡では那須北条郡、塩屋郡からは氏家郡、都賀郡内には犬飼郡・国府郡・落合郡というように次々と新たな郡名が出現するようになった。また郷についても同様に各地における開発にともなって激増した。
 現在の高根沢町域は、塩谷郡の行政区内に入っているが、古代における郡制のもとでは芳賀郡と塩屋(谷)郡にまたがっていたようである。そして中世期には氏家郡と称する私郡に含まれる地域があった。
 氏家郡という名称は、塩谷町の船生の佐貫磨崖仏の上位の奥の院で見つかった銅版曼荼羅(宇都宮市東海寺蔵)の背面の左記の銘文に見えるのが初見である。
 
  下野国氏家郡讃岐郷巌堀修造の事
    勧進の沙門満阿弥陀仏
    大檀那右兵衛尉橘公頼
      建保五年(一二一七)丁丑二月彼岸第三日 金銅仏を掘出畢
 
 その他、文和二年(一三五三)銘の「氏家郡美女木」(滝沢馬琴著「耽奇漫録」所収 古琵琶墨書銘文)、永徳二年(一三八二)銘の「氏家郡金屋郷」(日光市輪王寺旧蔵の鰐口銘文)、宝徳四年(一四五二)銘の「氏家郡由(湯カ)本下沢田」(塩原町上塩原畑坪十王堂蔵の銅造観音像光背銘文)などの金石文の他、天文四年(一五三五)宇都宮俊綱安堵状写(史料編Ⅰ・五三三頁)以下、天文五年芳賀高経副状(同上・五三四頁)や天正一九年の宇都宮国綱書状(同上五五四頁)などの「氏家郡之内栗島郷」の記載などで確認できる。
 これらのように氏家郡という郡名を私称したのはこの地域を支配した領主と考えられるが、建保五年銘の銅版曼荼羅に見える「大檀那右兵衛尉橘公頼」がその領主とみられよう。この橘公頼とは、『吾妻鏡』建久四年(一一九三)一一月二七日の条で、源頼朝の永福寺薬師堂供養に臨む先陣随兵の一人として見える「氏家五郎公頼」のことと思われる。『吾妻鏡』には、公頼に関する記事が前後に計八回あり、頼朝の随兵として先陣を切ったり、鶴岡八幡宮の流鏑馬の射手になったりしており、鎌倉御家人としての氏家公頼の姿を想像することが出来る。
 この氏家氏の出自については、『下野国誌』(江戸時代・河野守広編纂)などの後世に作られた系図には宇都宮朝綱の子としてあるが、『尊卑分脈』には公頼の名がなく、朝綱の子の公重と記載されている人物を公頼に比定する説もある。しかし、先に紹介したように、公頼は橘姓を名乗っていることから、藤原姓であるはずの宇都宮氏の一族としては整合しないので、必ずしも明確ではないとするしかない。
 その点についてここでは省略するが、ともかく氏家氏は、前節でも述べたように、ある時期から宇都宮の一族として自他ともに認められ、御家人として活躍するとともに、宇都宮社壇の中において神官層として明確に位置づけられていたことは明らかである。
 この氏家氏は、公頼を初代とすると、以後、公信―経朝―公宗と継承されていたようである。そして建長八年(一二五六)六月、奥大道(奥州道路)の各宿に夜討・強盗の出没が激しくなったとして、道筋の地頭二四人が警備を命じられており(『吾妻鏡』)、その一人に「氏家余三跡」の名がある。余三(経朝)の後継者、つまり公宗とみられる人物が奥州道の要路筋の地頭として氏家郡の地域を領有していたことがうかがえる。

11図 銅版曼荼羅表面(宇都宮市 東海寺蔵)


12図 銅版曼荼羅背面(宇都宮市 東海寺蔵)