このように氏家氏は公宗にいたるまでに宇都宮氏の傘下に属し、おそらく宇都宮氏との婚姻関係によって宇都宮一族としての地位を確保したようである。そして、公宗の代には氏家郡の郡域は、鬼怒川東岸から荒川を境にして、南は芳賀郡にも及ぶ地域を確保したようで、俗に「氏家二四郷」と称する郷村が『今宮記録伝』(宝暦五年(一七五五)荒牧三郎衛門信瑞の写本)や、『氏家宿古記録集』(享保一二年(一七二七)石井作左衛門筆記)などの近世の記録にも列挙されている。また、後述する『今宮祭祀録』にも天文一二年(一五四三)の記事に「廿四郷の役銭」とあり、氏家郡内の二四郷が明確になっていたことがわかる。
ただし、具体的な二四郷の名は、『今宮祭祀録』では明確には特定して列挙されておらず、『今宮記録伝』や『氏家宿古記録集』などによって推定するほかない。しかもこれらを付き合わせてみると若干の異同もあるので必ずしも確定はできないが、一応『氏家記録伝』によれば、関俣・文挾・土室(現在の飯室)・柏崎・八ツ木・栗ケ島・平田・石末・阿久津・肘内・大久保・上平・風見・山田・大宮・金枝・玉生・船生・上麻(現在の上沢カ)・驚沢・太田・寺渡戸・泉・氏家の二四の郷村名が挙げられている。
『今宮祭祀録』では、上記の二四の郷村名の他にも、飯岡、有隅、迫田、玉尾、増渕、青谷(大谷)、岡本、給分(給部)、前高野、中高野、佐々島、佐貫、比留島、西宿、三依、塩原などの郷村名が見え、必ずしも二四郷にとどまらず今宮明神の諸役を負担した郷村名を知ることが出来る。したがってこれらの郷村名をも含めて検討すると、概ねの氏家郡内の領域が推定される。