13図 氏家郡内の郷村(上郷と下郷)分布図 『今宮祭祀録』より作成
宇都宮国綱の書状と推定される年不詳の二月二六日付の書状写(史料編Ⅰ・五七九頁)に「其地普請之儀、氏家下郷へ毎年被仰付侯」とあり、その地(石末城のこと)の普請について、氏家下郷の村々が負担するようにとの内容の記事がある。この「氏家下郷」の記事から、氏家郡は上郷と下郷に地域を分けられていたと考えることができる。つまり氏家郡域は、今宮明神のある氏家卿を中央として、鬼怒川上流部に伸びる西北部と、下流に沿って東南部に伸びる地域とに分かれて広がっているから、それぞれ上郷と下郷と呼んでいたと推定できるのである。
したがって『今宮祭祀録』や『今宮記録伝』・『氏家宿古記録集』などにみえる氏家二四郷をはじめとする氏家郡内の郷村名は、地図に示したように、上郷は、現塩谷町域の船生・玉生・上麻(上沢)・泉(和泉)・風見・山田(風見山田)・金枝・上平・大窪(大久保)・大宮・肘内・飯岡・佐貫、そして、現今市市域に入る荊沢(驚沢)、下郷は、現高根沢町域の文挾・阿久津・石礎(末)・柏崎・平田・栗ケ島・太田・寺渡戸・土室(飯室)、青谷(大谷)・関役(花岡)、現芳賀町の八ツ木・給部、そして現氏家町の桜野、さらに現河内町の岡本も入っていたと思われる。また、迫田は現氏家町の狭間田のことと思われる。
この他現在の場所に比定できない郷村名もあるが、少なくとも高根沢町域は中世期、私郡の氏家郡内の下郷に属していたことがわかる。