また通常の神事を勤める神主として禰宜がいたようで、「栃木県採集文書」(東大史料編纂所蔵)によれば、長享三年(一四八九)卯月一〇日の今宮明神社檀造営棟札に「御神主前下野守藤原朝臣成綱(花押)」とあり、禰宜太夫宗保の名も同じ棟札に銘記されている。時として宇都宮氏が神主として出仕することもあったが、普段は禰宜太夫が奉斎していたことがうかがえる。
祭礼は基本的には毎年九月中旬(一五日ごろ)に行われていたようで、氏家郡内の郷村が毎年持ち回りで「頭役」という祭礼を勤める役をすることが定めとなっていた。この「頭役」は、今宮明神の場合では「氏家頭」もしくは「大頭」と呼んでいたようで、それぞれの郷村の給人(領主の家臣として郷村を知行地として給された者)がこの頭人となって頭役をつとめた。そしてその大頭のもとに「下頭」といって大頭に奉仕して勤める頭人が援助することもあったようである。大頭には、応永一〇年(一四〇三)の上石礎郷の若色掃部助、文安五年(一四四八)文挾郷の高根沢宗衛門尉、享禄三年(一五三〇)の上阿久津郷の岡本但馬守、天文三年(一五三四)の栗ケ島郷の桑窪修理亮、同一八年の平田郷の太田中務少輔などのような給人の名が見られる。そして下頭を勤めたのは、応永一九年(一四一二)、上平村の百姓けいくわん坊が指名されたのをはじめ、同二〇年の下阿久津の孫八、宝徳二年(一四五〇)の上平の彦七などの百姓層が勤めたようで、彼らは百姓の中でも特に富裕な者(有徳人)が指名されていたようである。
頭役・頭人の順番は本来決められていたようであるが、実際には、順番にあたった郷村の諸事情により変更されることが多かった。嘉元元年(一三〇三)長草村が頭役を勤める年であったが「荒所」(田畑が荒廃してしまって生産力がなくなったこと)となったため、「上意」(宇都宮氏からか)により延引している。また、応永一〇年(一四〇三)には青窪村の番であったが、寺領であるため(どこの寺領となったのかは不明であるが、寺領になったことで、当面負担が重複しないようにとの配慮から)暫く延引するとの上意があり、上石礎郷が頭役を勤めており、同一二年には文挾郷の頭人にあたる人物が給人を拝領して間もないということで、次年度の舟生郷の舟生修理亮が頭人を勤めている。
このような当年の頭役の「差定」(指名)は、おそらくその年の正月ごろには行われていたようで、頭役に指名されると頭人はまず、御供の魚の準備のために簗を打って魚を獲ることからはじめた。天文六年(一五三七)の記事では春と秋の二回にわたり簗を打っていることが知られるからである。頭人を勤めることは、指名された郷の給人であることを世に示すことでもあり、頭人は祭礼に臨む前に、ある期間精進潔斎をして特別の帽子と「上衣」(浄衣)を着し、門には「七五三」(注連縄のこと)を下げた。天正一七年(一五八九)桜野郷の頭役で、粕屋源兵衛が頭人を勤めるわけだったが、老母が八月九日に死去したため、急いで源兵衛の子の藤三郎が勤めることになり、藤三郎が上衣を着て注連縄を張り、わずか七日間の精進で頭人を勤めたという記事がそうした様子をよく物語っている。
祭礼に際して頭人が用意するものは、神前に供えるものとして、まず先に紹介した御供の魚のほか、様々な神饌をあげなければならなかった。以下、どのようなものか不明なものもあるが、ともかく『今宮祭祀録』に記載されている名祢のまま列挙すると、櫑子(酒器)(二本)・けのくだ(三)・一二合(三)・あめ桶(一)・まつかさ(一)、高盛として昆布(片盃)・原鳥(片盃)・まんな合(一盃)が義務づけられていた。
さらに政所(氏家氏)へ納める分として、櫑子(一本)・けのくだ(二)・一二合(一)・をき鳥(一)・おき鯉(一)・へいじ桶(一)・長櫃(一合)・長畳(一畳)、高盛として、はじかみ(ショウガ又はサンショウのこと)(片盃)・鶉(片盃)・まんな合(一盃)・つけひばり(一)。両小政所へ納める分は、まんな(片盃)・櫑子(一本)・けのくだ(一)・一二合(一)。社家へ納める分は、けんざ(見社)へまんな(片盃)。湯の母へまんな(片盃半分)。祢宜代官へまんな(片盃)。けんざ(見社)へけのくだ(二)・一二合(二)。惣社人へまんな(片盃)、二の命婦へまんな(半分)、といった具合に、様々な供物を納めなければならなかったのである。
さらには、頭人に当たった場合、頭役銭を上納しなければならなかったようである。天正九年(一五八一)の栗ケ島郷が頭役になった年、「一〇貫の御年貢、五貫にて勤役申し候」とあるように、栗ケ島郷の場合本来は一〇貫文であるところ諸事情により半分の五貫文で済ませてしまったことが記されている。
また、祭礼に御屋形様(宇都宮氏)が出仕するときは、明神へ御幣馬、女体の御神体へ小袖(一)・綿入袷(一)・初尾一四貫文、日光堂へ三貫文、禰宜所へ一〇貫文・太刀(一腰)を納め、宇都宮へ三献奉納することになっており、さらに芳賀氏も参詣した時は、明神へ二貫文・剣(一)、日光堂へ銭五〇疋(五〇〇文)を納め、政所(氏家氏)の場合は、明神へ三貫文・太刀(一腰)、禰宜所へ御酒肴(五献)と一貫文という具合に定まっていたようである。今宮明神の祭祀は、氏家郷の惣鎮守の祭祀であると共に、宇都宮一族の領内における祭祀に他ならないものであった。従って宇都宮氏は宇都宮明神の社壇の検校職として、芳賀氏は宇都宮氏に次ぐ実力を供えて、俗に「宇都宮明神ノ俗別当ナリ」(『応仁武鑑』)と呼ばれた地位を背景として、共に祭司者として出仕し、相応の御供料などを納めたのである。
このように今宮明神の祭祀に頭役の巡番にあたった場合の規定は細かく、郷村の負担や障害は存外大きなものであったようである。例年の記録を見てみると、種々の規定にもかかわらず、頭役に当たった時の事情によっては免除もしくは軽減することも多かったようで、例えば、永正一三年(一五一六)上阿久津郷が頭役に当たった時「乱故、半御供参候」と乱によって半分の御供であったように、かなりの頻度で負担の軽減や頭役の代替えなどが行われていたのが実状のようである。
14図 『今宮祭祀録』(氏家町 西導寺蔵)