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二九〇年間の記録

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 『今宮祭祀録』は、文字どおり今宮明神の祭祀に関する記録であり、正安二年の造営にかかわる氏家郡内の諸郷村の分担と、以後文禄二年にいたるまでの頭役の勤仕の記録であり、鎌倉後期から戦国末期にかけての貴重な祭祀史料である。
 まず、『今宮祭祀録』の記事に基づいて頭役を勤めた時期や郷村名・人物や下頭を勤めた有徳人たちなどを整理すると、1表に示したとおりである。これらの中で特に、高根沢町域にかかわる下郷の給人、つまり村の支配を認められていた人物として、高根沢氏、阿久津氏、岡本氏、若色氏、柏崎氏、桑窪氏、矢口氏、粕屋氏、太田氏、舟生氏、今泉氏、大森氏などの諸氏がいたことがわかる。さらに、富裕な百姓層(有徳人)には、文挾郷の美女木法センや美女木の平三郎、下阿久津郷の孫八、八ツ木の紀五郎入道、西宿の平次郎、石末の弥次、土室(飯室)の浄幸入道、関俣の源五郎、太田の彦清次らの名前が見られる。
 天正一五年(一五八七)の記事に、「上郷之衆」として金枝、上平、飯岡、粕谷、小宅、鈴木の諸氏が列挙されているように、これらの下郷の諸氏も「下郷之衆」として地域的な結束を求められていたようである。
 ところでこの記録の史料価値は、実は今宮明神の祭祀に直接関わる事柄以外の記事が多いことでさらに高まっているといえる。
 まず第一には、今宮明神の頭役記録のみではなく宇都宮明神の頭役の記録についても記してある点注目される。つまり、宇都宮明神の頭役を「宇都宮頭」もしくは「宮頭」、「宇都宮大頭」とあり、さらに「宮下頭」の表記もある。今宮明神の場合と同じように大頭と下頭があって、氏家郡内の郷村にも宇都宮明神の祭祀にともなって諸役が課されていたことがわかる。応永九年(一四〇二)の迫田郷以下、同一二年は阿久津、同一四年は八木郷、同一六年は青谷郷、同一八年は郷村は不明であるが料足一〇〇貫文を負担、同二〇年は八木郷、文安五年(一四四八)は文挾郷、享徳二年(一四五三)は下阿久津郷、同四年は高野郷、永禄八年(一五六五)は岡本郷、天正七年(一五七九)は和泉郷がそれぞれ宇都宮頭もしくは下頭に課せられている。宇都宮明神の他の地域の記録がほとんど残ってない中で貴重であると同時に、今宮明神の祭祀と宇都宮明神の祭祀が重層して行われている様子を知ることができる。
 その他『今宮祭祀録』は、単に毎年の頭役の順番を記しているのみではなく、随所にその年に起きた事件などの記事が書かれている点で興味深い史料となっている。つまり頭役の勤仕が必ずしも順調に勤められていなかった場合にむしろ内容が豊富に記されることが多いのである。
 一つには災害の記事である。天文九年(一五四〇)の八月一四日の亥刻から丑の刻まで、つまり、だいたい午後一〇時ごろから翌日の午前二時ごろまでの深夜に猛烈な暴風か吹き荒れ、宇都宮の東勝寺の五重塔をはじめその他の堂塔の多くが吹き倒された記事があり、今宮明神でも古木が九七本倒れた様子を伝えている。
 また、永禄六年(一五六三)の七月二九日から大雨・大風が続き、鬼怒川・荒川・田川が増水、八月一日には大洪水となって山田郷(現塩谷町風見山田)ではついに大規模な山崩れが発生し、「岩打」(土石流のことか)のため村民三〇〇余人が犠牲になった記事がある。そしてこの時の被害は武蔵・上総などにおいても甚大であったことを伝えている。
 さらに永禄八年(一五六五)には、七月二三日の夜半の子の刻(午前零時前後)に飯岡郷に「蛇」が出て、飯岡修理亮父子三人以下八名の者が犠牲者となり、上麻村にも同年に同じ被害があったことが書かれている。この「蛇」の被害については、毒蛇や大蛇の類の蛇と見るのか、それとも山津波や地割などの自然災害のことを指しているのかは不明であるが、興味深い災害記録といえよう。
 災害記事のほかに注目されるのは、合戦の記事である。主なものをあげると、まず永正一一年(一五一四)に佐竹・岩城勢が宇都宮に進攻し、竹林の地で戦闘となり岩城勢が二,〇〇〇人討死した記事。同一三年の那須浄法寺の縄釣の地での岩城・佐竹勢と宇都宮勢との戦いの記事。天文一八年(一五四九)の那須高資と宇都宮俊綱との合戦(喜連川五月女坂の戦いで俊綱は敗死)の様子や、同年に芳賀高定が俊綱の遺子広綱を擁して真岡城に移ると芳賀高照が宇都宮城を占拠し、さらに壬生綱雄が北条氏の援助によって宇都宮城を攻撃する推移についての詳細な記事。天正一二年(一五八一)の佐野沼尻における北条氏直と宇都宮国綱・佐竹義重軍との四月から七月までの一一〇日間にわたる合戦の事。同一三年に宇都宮国綱が多気山城へ移る様子や、北条氏直が宇都宮へ進攻し、宇都宮明神の御殿をはじめ楼門・回廊・日光堂・大御堂をはじめ、興禅寺や東勝寺などの大寺を焼き払ったこと。そして同一五年には倉崎城(現今市市)をめぐる日光山衆徒と宇都宮勢との攻防戦と大門弥次郎という壬生一族の人物の討死などの記事がある。
 このように、『今宮祭祀録』は、氏家郡内の記録にとどまらず、中世の下野国内の情勢を伝える極めて興味深く貴重な記録で、今後下野の中世史研究の上でさらに活用する必要がある好個の史料であるといえよう。
 なお、『今宮祭祀録』は、正安二年(一三〇〇)の造営の記事にはじまり、同年以後の毎年の祭祀の記録で文禄二年(一五九二)まで記録されており、本来そのつど書き足されていたものであったと想像されるが、原本は現在のところ確認されていない。近世の書写本によってその内容を知ることができるのみである。その書写本もいくつかあり、現在のところ六種類が確認されている。(史料編Ⅰ・五九五頁参照。なお、史料編Ⅰでは五種類の写本を掲載したが、その後真岡市小宅雄次郎家文書に村上本の底本であったとみられる写本が確認された。)。
 その中で書写年代が最も古く、かつ、諸本の中でも記事が最も豊富にあるものは現在のところ酉導寺所蔵の書写本である。
 
1表『今宮祭祀録』に基づく郷村毎の今宮明神の頭役(頭人)一覧
現在の市町村名郷村名年号頭人下頭備考
上郷塩谷町舟生(船生)郷応永一二年(一四〇五)舟生修理亮飯岡六郎文挾郷に替わって舟生郷が頭役
享徳二年(一四五三)神長土佐守舟生郷道久
明応三年(一四九四)君島宮内少輔関俣源五郎名代
大永元年(一五二一)君島中務
天文四年(一五三五)君島中務少輔
永録五年(一五六二)君島中務少輔
玉生(尾)郷応永一三年(一四〇六)舟生因幡守大窪平三郎文挾郷に替わって玉尾郷が頭役
文安三年(一四四六)権太夫式部尉土室浄幸入道
大永三年(一五二三)玉生右京助(討死のため欠頭)
天文七年(一五三八)戸村兵部少輔
元亀元年(一五七〇)岡本筑後守
上(大)麻(沢)郷応永一四年(一四〇七)上麻入道舟生郷六郎三郎
宝徳元年(一四四九)大麻入道加佐美浄堅死去のため道得
永正一〇年(一五一三)(不明)
大永六年(一五二六)和泉守
天文九年(一五四〇)上麻右京助
天正五年(一五七七)蛇打二合不参
天正六年(一五七八)右京亮詫言
泉郷永禄九年(一五六六)御頭懈怠
天正一二年(一五八四)大和田左馬之助
風見郷乾元元年(一三〇二)加佐美左衛門二郎
天文一七年(一五四八)賀佐美出雲守
天正三年(一五七五)君島播磨守
文禄二年(一五九三)風見新五郎
山田(風見山田)郷元亀二年(一五七一)無勤役候也
天正二年(一五七四)戸祭大学助
天正一九年(一五九一)(欠頭)山田治郎少輔遠行に付欠頭
金枝郷応永一六年(一四〇九)神長入道石末弥次
宝徳二年(一四五〇)神長能登入道上平之彦七
明応五年(一四九六)雅楽之助
大永二年(一五二二)神長雅楽助
天文五年(一五三六)神長宮内少輔
永禄六年(一五六三)神長宮内少輔
天正一〇年(一五八二)土佐入道
上平郷天文一六年(一五四七)籠谷和泉守
天正元年(一五七三)籠谷越後守
文禄元年(一五九二)上平修理亮
大窪(久保)郷明応四年(一四九五)豊後守殿
永正一二年(一五一五)(不明)
享禄二年(一五二九)大久保修理亮
天文一一年(一五四二)大窪修理亮
永禄一〇年(一五六七)大窪小太郎
天正一四年(一五八六)粕谷源兵衛
飯岡郷応永一七年(一四一〇)舟生右衛門次郎太田法光
文安五年(一四四八)舟生修理亮入道八木浄幸
永正一一年(一五一四)舟生靱負
享禄元年(一五二八)壱岐守入道
天文一〇年(一五四一)飯岡八郎
永禄八年(一五六五)順年不参候
天正一三年(一五八五)飯岡八郎
今市市荆(驚)沢郷応永一九年(一四一二)御代官竜九郎上平村けいくわん坊(辞退)
永正一四年(一五一七)(不明)
享禄四年(一五三一)(不明)
天文一三年(一五四四)粕谷小僧
永禄一二年(一五六九)粕谷源兵衛
天正一六年(一五八四)粕谷源兵衛遠行につき欠頭
下郷氏家町桜野郷天正一七年(一五八九)粕谷藤三郎
阿久津郷(上阿久津)応永二〇年(一四一三)舟生修理之亮・阿久津五郎下阿久津の孫八
享徳三年(一四五四)阿久津五郎
永正一三年(一五一六)(不明)
享禄三年(一五三〇)岡本但馬守
天文一二年(一五四三)岡本但馬守
天正七年(一五七九)今泉但馬守
高根沢町阿久津郷(中阿久津)永正九年(一五一二)(不明)
大永五年(一五二五)岡本兵庫
天文六年(一五三七)岡本兵庫助
永禄二年(一五五九)岡本兵庫助
天正八年(一五八〇)岡本兵庫
関役(俣)郷正安二年(一三〇〇)橘次左衛門尉
天文一五年(一五四六)屋形様御代塙源右衛門尉
元亀三年(一五七二)若色大膳
天正一八年(一五九〇)若色隠岐守
文挾郷応永一五年(一四〇八)高根沢六郎美女木法セン
享徳元年(一四五二)高根沢宗衛門尉美女木平三郎
石礎(末)郷応永一〇年(一四〇三)上石末郷若色掃部助青窪(大窪)村巡年のところ変更
永正八年(一五一一)(不明)上石末村
大永七年(一五二七)若色掃部助
天文八年(一五三九)若色玄番(蕃)
永禄七年(一五六五)若色隠岐守
天正一一年(一五八三)若色大膳
柏崎郷嘉元元年(一三〇三)柏崎藤内左衛門
平田郷正安三年(一三〇一)六郎入道
応永一一年(一四〇四)袮宜右衛門太郎頼信八ツ木紀五郎入道
文安四年(一四四七)岡本修理亮西宿平次郎
永正一五年(一五一八)(不明)
天正元年(一五三二)(不明)
天文一八年(一五四九)太田中務少輔
天正四年(一五七六)舟生彦六
栗島郷応永一八年(一四一一)御代官小次郎驚沢浄願
明応二年(一四九三)栗ヶ島殿下阿久津孫八
永正一七年(一五二〇)長山之代官小窪雅楽助不参
天文三年(一五三四)桑窪修理亮
永禄三年(一五六〇)矢口大覚(学カ)助
天正九年(一五八一)矢口但馬守
青(大)谷郷明応元年(一四九二)飯村中務少輔大窪村佐々島平内三郎
永正一六年(一五一九)大森治部
天文二年(一五三三)田野辺左京助
天文一四年(一五四五)粕谷雅楽助
永禄一一年(一五六八)舟生大膳亮
天正一五年(一五八七)粕谷善七郎
河内町河内町応永九年(一四〇五)岡本将監入道

 
2表 『今宮祭祀録』に見える宇都宮頭と宇都宮下頭一覧
郷村名年号宮頭宮下頭備考
追田(狭間田)郷応永九年(一四〇二)大田彦清次
阿久津代(マゝ)応永一二年(一四〇五)阿久津和泉守
八木郷応永一四年(一四〇七)(不明)
応永二〇年(一四一三)舟生修理亮
青谷郷応永一六年(一四〇九)君島右京
不明応永一八年(一四一一)(不明)料足百貫文
文挟郷文安五年(一四四八)高根沢宗衛門尉
下阿久津郷享徳二年(一四五三)大長井八郎
高野郷享禄四年(一五三一)平井修理亮
岡本郷永禄八年(一五六五)頭人不明
和泉郷天正七年(一五七九)代官大和田左馬助