ビューア該当ページ

鎌倉幕府の滅亡

399 ~ 401 / 899ページ

1図 初代執権北条時政の墓所(静岡県韮山町)

 正治元年(一一九九)源頼朝が五三歳で死去の後、将軍となった頼家・実朝とも御家人の信望を得るに至らず、その後の幕府は頼朝の妻政子の実家である北条氏が実権を握っていった。北条氏は政権の初期、評定衆・引付衆を置くなど、一族・御家人等による合議制を敷いたが、対抗する梶原氏・比企氏等の有力御家人を倒す過程において、しだいに専制化を深めていった。特に五代執権北条時頼は執権としての地位を退いた後も得宗(北条氏の嫡流)として政治の実権を握り、以後の得宗専制政治への先駆けとなった。
 北条氏嫡流による得宗専制政治は、権力の一極集中を生み、それは元寇(文永一一年・一二七四、弘安四年・一二八一)のような危機に際しては有効に機能したが、平時においては依然力をもつ有力御家人とは対立の原因ともなった。その一つが鎌倉幕府草創以来、他の御家人の信望を集めていた安達氏が内管領(鎌倉末、北条氏の家政をとった御内方の筆頭)の平頼綱に滅ぼされるという霜月騒動(弘安八年・一二八五)である。元寇以後、恩賞への不満や霜月騒動などにみられる幕府内部の権力闘争、さらに血縁や地縁の武士が団結して行動する一揆や、荘園領主や幕府の支配に反抗する悪党の出現などの社会情勢の変化に伴い、これらに対応できない北条得宗政治に対する不満が急速に御家人の間に広まっていった。
 このような状況の下、文保二年(一三一八)皇位に就いた後醍醐天皇は、平安中期の醍醐・村上天皇の時代である「延喜・天暦の治」を理想として天皇自らが政治を行う天皇親政をめざし、北条氏の政治に対する不満をもつ御家人、畿内周辺の社寺や新興勢力である悪党などの力を結集し討幕の準備をすすめていった。討幕のための挙兵は、正中元年(一三二四・正中の変)、次いで元弘元年(一三三一・元弘の変)の二度にわたり行われたがいずれも六波羅探題(京都内外の警備や公家政権の監視等のため承久の乱以後設置された鎌倉幕府の地方機関)により鎮圧され、後醍醐天皇は隠岐に流された。配流となった後醍醐天皇に代わり幕府は光厳天皇を即位させた。しかし、一時は挫折した討幕の動きも、河内の小土豪である楠正成や後醍醐天皇の子息である護良親王などの粘り強い抵抗によりしだいに息を吹き返し、元弘三年(一三三三)天皇の隠岐脱出を契機に一気に勢力を拡大した。
 畿内を中心に各地で抵抗を続け勢力を拡大する反幕府勢力に対し、六波羅探題の軍事力だけでは対抗できずと見た鎌倉幕府は、同年三月関東の有力御家人である足利高氏(のち尊氏)等を大将とする軍勢を京へ向け派遣した。しかし、高氏は領国三河で北条得宗家からの離反を決意し、五月に京に突入し、激戦の末六波羅探題を壊滅させた。
ここに、畿内・酉国における鎌倉幕府の拠点が滅んだことにより、形勢は一挙に後醍醐天皇側に傾いた。同じころ、関東では上野新田荘を基盤とする新田義貞が挙兵し鎌倉へ向かった。新田軍は各地で抵抗する幕府軍を破り戦力を増強し、五月二一日三方から鎌倉へ突入した。翌二二日、北条高時等北条氏一門は鎌倉の東勝寺において自刃し、ここに一五〇年にわたった鎌倉幕府は滅亡した。
 鎌倉幕府滅亡という状況の下、高根沢氏等、下野武士たちはどのような動きをしたのだろうか。残念ながら高根沢氏の動向を直接記した資料は発見されていない。ために、高根沢氏の主家である宇都宮氏の動向を追いながら推測してみたい。

2図 後醍醐の銘のある銅鋺(延元元年 日光市輪王寺蔵)