宇都宮氏は鎌倉幕府の御家人として幕府に出仕する一方、幕府の要職を歴任する等幕府内においても高い地位を占めた北関東の豪族であり、当時、当主は九代公綱であった。反幕府勢力が畿内を中心に抵抗を続けていた正慶元年(一三三二)七月、鎌倉幕府の命により畿内周辺の反幕府勢力の鎮圧のため京へ向かった宇都宮公綱は、六波羅探題軍とともに、四天王寺(大阪市天王寺区)で楠正成軍と対峙していた。一九日、都を出て天王寺へ向かう公綱に従うものは郎党一四、五騎であったが、途中しだいに増え総勢六、七〇〇騎程になったという。近づきつつある公綱勢にたいし、正成は「合戦ノ勝負必ズシモ大勢小勢ニ不依…(中略)…宇都宮一人小勢ニテ相向フ志、一人モ生キテ帰ラント思者ヨモ侯ハジ。其上宇都宮ハ坂東一ノ弓矢取也。紀清両党ノ兵、元来戦場ニ臨デ命ヲ棄ル事塵芥ヨリモ尚軽クス。」(『太平記』)と述べ、一時陣を引き払っている。宇都宮氏が武門の誉れ高く、勇気ある坂東武者として敵にまで認められていたことを示すエピソードの一つであろう。また、翌年にはやはり楠正成の籠もる千早城(別名金剛山城、大阪府南河内郡千早赤阪)を紀清両党とともに攻撃している。紀清両党とは益子氏と芳賀氏のことであり、両氏とも宇都宮氏と姻戚関係を結んでおり密接な関係にあった。これらのことから、当時、宇都宮氏にあっては下野において宇都宮城を守る公綱の子息氏綱と、鎌倉幕府の命を受け畿内を転戦する公綱とに勢力が二分されていただろうと思われる。そして、高根沢氏のような在地の武士の多くも下野に在り宇都宮城へ出仕しその任に当たる者や、また動員を受け公綱とともに、鎌倉幕府軍の一員として畿内を転戦していた者もあったろうと思われる。
3図 宇都宮公綱朝臣之像(『下野国誌』より)
4図 四天王寺(大阪市天王寺区)