鎌倉幕府の滅亡後、正慶二年(一三三三)六月京に入った後醍醐天皇は幕府により擁立された光厳天皇を廃止し、「朕ノ新儀ハ未来ノ先例タルベシ」(『梅松論』)との意気込みの下、天皇親政の政治を行った。翌年、建武と改元したためこの一連の政治を「建武の新政」と呼んでいる。新政では、機構として中央に政府の重要政務の議定機関として記録所、恩賞処理のための恩賞方、所領関係の訴訟にあたる雑訴決断所、そして京都警備のため武者所などが置かれた。地方には、鎌倉幕府勢力の強い関東・東北にそれぞれ鎌倉将軍府・陸奥将軍府を置き、諸国には守護と国司を併設した。関東より下向し畿内を転戦していた宇都宮勢は、幕府滅亡ののち後醍醐天皇の綸旨(天皇の命を受けた文書)を受け降伏したが、その後新政権下で雑訴決断所の一員として活躍した。
新政権下に設けられた雑訴決断所は、訴訟の増加により翌年八月に所員が増加され全体が八番に分かれ、五畿七道を分担する仕組みとなったが、うち一番に宇都宮公綱の名が見える(「雑訴決断所結番交名」)。おそらく、政務に精通しない者の多い新政権下において、鎌倉幕府に出仕し政務にたけた公綱等は、貴重な存在ではなかったかと思われる。彼の在京に伴い、当然ながら紀清党をはじめとして下野武士の一団も京に残り都の警備にあたったものと思われる。