ビューア該当ページ

動乱の時代へ

403 ~ 405 / 899ページ

5図 建武政府の機構

 「公家一統」の理想を掲げた新政権も、政権樹立の最大の功労者である足利尊氏が政権内部に参加しないという極めて不安定な状態でのスタートであった。加えて、天皇の絶対的権威を示そうという後醍醐天皇は、土地の領有は綸旨のみで認めるという方針を打ち出した。そのため、土地の領有権を認めてもらおうという諸国の人々は、自己の領有権の正当性を示す文書を葛に背負い競って都に上り綸旨を求め、政権の混乱に拍車をかけた。
 天皇は後、綸旨による確認を北条氏の旧領のみに適用すると改正したが、このような朝令暮改はかえって人々の新政権に対する不安に拍車をかけることとなった。また、幕府倒壊の論功行賞が武家に薄く、公家に厚いとする武家側の不満や、人心がいまだ治まらぬのに大内裏(皇居である内裏を中心とし諸官庁を配した一郭)の再興を計画し、その負担を諸国の地頭に負担させるなどしたため、北条政権を倒し新政権に期待した武士たちの間には急速に不満が広がっていった。まさに「武家・公家水火ノアラソヒ」(『梅松論』)であった。
 このような状況を見て建武二年(一三三五)七月、鎌倉幕府最後の執権である北条高時の遺児時行が、幕府復活をねらって信濃に挙兵した(中先代の乱)。時行軍は同月二三日、武蔵で足利直義(尊氏の弟)軍を破り二五日には鎌倉に入った。足利直義は敗走し三河に軍を留め援軍を待った。尊氏はこの報に接するや直義を助け鎌倉を回復するための軍を集め、八月二日京を発った。その後、直義と合流し箱根・相模川の合戦で時行側を打ち破り、一九日には鎌倉を回復した(『梅松論』)。鎌倉に入った尊氏・直義は論功行賞は綸旨をもって行うという後醍醐天皇の命に反し、時行討伐に功のあった配下の武将たちに恩賞を与えた。さらに、鎌倉幕府を直接攻撃し建武政権下でも主要な地位を占める新田義貞追討を名目に鎌倉に止まった。一一月に入ると直義が、義貞誅伐のためとして軍勢催促状を各地に出しており、ここに後醍醐天皇・新田義貞との武力対決が決定的となった。
 一九日新田義貞を大将とする尊氏追討軍が東下、各所で足利軍と合戦を行ったが一二月一一日箱根竹ノ下の合戦で敗れ西へ敗走、追う尊氏軍は翌建武三年(一三三六)京に入った。しかし、翌年義良親王・北畠顕家の奥州勢に敗れ、一時中国・九州へ落ち、同年四月、再度京を目指し軍を進め五月待望の京都を再度奪回した。
 京に入った尊氏は八月光明天皇を擁立、一一月後醍醐天皇と講和を結び、さらに政治方針要綱として建武式目を制定し着々と足元を固めていった。しかし、両者の講和は長続きせず後醍醐天皇は一二月吉野にこもり、依然天皇の地位にあることを主張した。ここに、足利氏の押す京都の光明天皇と、それを認めない吉野の後醍醐天皇と二人の天皇が併存することとなり、京の北朝、吉野の南朝とが互いに正統性を主張し全国の社寺・武士を巻き込んでの対立の時代(南北朝の動乱)が明徳三年(一三九二)の両朝の合一まで、約六〇年続くこととなった。

6図 足利尊氏像(神奈川県立歴史博物館蔵)