建武二年(一三三五)の中先代の乱に際し、東下したまま鎌倉に留まった足利尊氏を討つため、京を出た新田義貞軍の中に新政権の一員となった宇都宮公綱の名が見える。義貞軍に参加し尊氏軍に敗れ京に帰った後、公綱は京都山崎で再度尊氏軍と合戦し敗退したため、尊氏軍に降り一時義貞軍と対峙するようになる。翌年、奥州軍に敗れ西に落ちた尊氏軍とともに摂津湊川まで退いた公綱は、ここで逗留中に陣を抜け出し五〇〇余騎とともに京へ戻り再度義貞軍に参加している。合戦に敗退すると相手側につき、今までの味方と対峙する。このような武士の生き方は武士道の考えとは相反するものであろう。しかし、武士道の成立は儒教思想が奨励された近世以降であり、中世においては近世のような武士道の考えは存在しなかった。鎌倉御家人としての実力を持ち、下野の名家としての誇りを持つ宇都宮氏にとっても、その経済基盤は結局は土地であり、土地からの収穫物により多くの家臣を養い、軍事力を高め動乱の時代を生きていかねばならなかった。頼れるものは自分であり、また命懸けで守ってきた「一所懸命」の土地であった。そのためには、その時々の情勢に応じ自分たちの利益を守ってくれる側に立つことは当時としては至極一般的なことであった。京において、いまだ権力の帰する所がはっきりとしない状況の中での新政権の崩壊、それに続く南北朝の対立という混乱の中で、中小武士団は、己の命運を賭け家臣とともに必死に進む道を模索していたであろう。
建武三年(一三三六)五月、九州から入京した尊氏軍に対し後醍醐天皇は比叡山に籠り抵抗を続けた。公綱もこれに従ったが、一〇月の両者の講和の後は天皇とともに京に戻り、尊氏軍により武装解除され出家している。なおしばらくは京に留まっていたが、後、下野から付き従ってきた家臣たちとともに下野に帰ったものと思われる。
7図 宇都宮貞綱(右)・公綱(左)五輪塔(宇都宮市興禅寺)