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足利氏の内訌

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8図 足利氏系図

 建武三年(一三三六)八月の光明天皇の即位、一二月の後醍醐天皇の吉野行きに端を発す南北朝の対立の初期において.南朝方の武将の相次ぐ討死により(楠正成・建武三年五月、名和長年・同年六月・北畠顕家・暦応元年五月、新田義貞・同年七月)軍事力では圧倒的に北朝が優位に立っていた。圧倒的な軍事力の差にもかかわらず、両朝の対立が約六〇年間全国の武士を巻き込んで続いたのは、ひとえに北朝を擁立する足利氏の内訌(内部分裂)によると言っても過言ではない。すなわち、足利尊氏と彼の弟直義とが争い、直義が殺されるという観応の擾乱(観応元年・一三五〇~文和元年・一三五二)である。
 尊氏の開いた室町幕府は当初より、軍事面を尊氏、司法・行政面を直義が担当するという二頭政治であり、必然的に従う武士たちも二派に分裂していった。乱のはじめは、鎌倉幕府的な秩序の維持を願う存在の代表である直義と、旧秩序を破壊しようとする新興勢力の代表である尊氏の執事の高師直との対立であった。この争いは、貞和五年(一三四九)八月、直義が政務を尊氏の子の義詮に譲ることで一時和議をみた。しかし、翌年直義派が挙兵し二月に尊氏派の師直一族が殺されたことにより、以後対立は兄弟の直接対決となっていった。
 これより前、鎌倉幕府滅亡後鎌倉には尊氏の嫡男義詮が残り東国を守っていたが、京での足利氏の内訌の激化に伴い義詮は京に戻り、代わって弟の基氏が鎌倉に入った(貞和五年九月)。基氏を補佐し執事としてともに関東へ下ったのが高師直のいとこで後養子となった師冬と、直義派の上杉憲顕であり、このため京での争いが必然的に関東へも持ち込まれることとなった。すなわち、観応元年(一三五〇)常陸で直義派の上杉能憲が、次いで一二月執事の上杉憲顕が上野で挙兵し、翌一月、高師冬が自刃させられたため関東では直義派が勢力を強めた。しかし、京では同年七月尊氏からの攻撃に身の危険を感じた直義が北陸へ逃れ、そこから鎌倉へ入ったため、事態は京都の尊氏と鎌倉の直義との全面対決の様相を帯びてきた。