9図 薩埵山(静岡県清水市と由比町の境)
尊氏は観応二年(一三五一)一〇月直義追討の綸旨を得るため一時南朝方に降り、同時に東国の諸将に尊氏方への参陣を呼びかけている。一方、直義も諸将に積極的に参陣を勧めており、これに先立つ四月、京において宇都宮氏綱(公綱の子息で宇都宮家〇代)の京都東福寺造営の功をねぎらい修理亮という官位に推挙することにより、自陣へ引き込もうとしている(「東福寺文書」)。恐らく、数多くのこのような文書が両陣営から発せられたものと考えられる。
一一月、京を立った尊氏は直義追討のため東へ向かった。途中、駿河国手越宿で岡本良円を使いとして下野の小山・宇都宮氏、常陸の佐竹氏等に軍勢催促を行っている(「岡本文書」)。宇都宮氏綱はこの誘いに応じ、一二月一族郎党の氏家・芳賀・益子氏等一、五〇〇騎を引き連れ、尊氏が陣を敷いた薩埵山に向かった。『太平記』には「将軍(尊氏)已ニ薩埵山ニ陣ヲ取リテ、氏綱ガ馳参ルヲ待給フ由聞ヘケレハ、高倉殿(直義)先宇都宮ヘ討手ヲ下サテハ難儀ナルヘシトテ…(中略)…一万余騎上野国ヘ差向ケラル」とある。氏綱の軍中には、高根沢氏も主家のため、又あわよくば手柄を立て己の領地を拡大せんと勇躍参加したものと思われる。
氏綱は上野国那和庄(群馬県伊勢崎市堀口)に軍を進め、ここで直義派の桃井直常軍を破り勢いに乗り薩埵山に向かい、足柄山の合戦に参加した。駿河での直義軍との合戦は激しく、参加した宇都宮勢にも高根沢氏の他多くの犠牲者か出ている。『宇都宮興廃記』(史料Ⅰ・七四五頁)によると合戦後、芳賀高名・益子貞正・氏家周綱が従五位下、同貞朝・綱元・綱経が正六位上等を賜っているが反面、高根沢新右衛門尉藤原兼吉(文献上の高根沢氏の初見)・風見胤重・戸祭高勝・山田貞房・大宮胤景・岡本冨高・大久保秀清等の人々が討ち死にしている。この合戦には、宇都宮氏も総力を挙げ臨んだものと思われ、宇都宮の重臣である芳賀・益子氏とも当主の参加が見られることからして、この時期高根沢城を基盤とする高根沢氏は新右衛門尉兼有が一族の中心として領域を治めていたものと思われる。なお、昭和三八年に刊行された「高根沢町郷土誌」によると、上高根沢の安住神社には神鏡二面があり、うち一面は正嘉二年(一二五八)二月、高根沢胤吉の寄進であるという。薩埵山合戦で活躍した兼吉と鏡を寄進したという胤吉との関係等については今後更なる研究が必要であろう。
いずれにしろ、この合戦において直義の背後をつく後詰めの役割をした宇都宮勢の役割は多大なものがあった。合戦後、宇都宮氏綱が尊氏から上野・越後の二か国の守護職を得たことを見てもその大きさがわかる。従来直義派の勢力の強かった関東は、乱後、直義・上杉派が一掃され「薩埵恩賞」「観応年中拝領地」(『鎌倉大日記』)により畠山国清(伊豆・武蔵守護)、川越直重(平一揆)、宇都宮氏綱等の尊氏派が中心となる。
なお、延文四年(一三五九)一〇月、畿内の南朝勢力を討つため畠山国清が足利基氏の在陣する武蔵入間河から関東の諸勢力を率いて京に向かっている。従うものの中に宇都宮氏綱を補佐する芳賀高名の他、「高根沢備中守・同一族一一人」(『太平記』)の記述が見える。高根沢備中守が具体的に誰を指すのかは明らかではないが、薩埵山合戦で兼吉が戦死した後も高根沢氏は主家である宇都宮氏に仕え行動を共にしていたものと思われる。
10図 安住神社拝殿(上高根沢)