①『下野國誌』所収「宇都宮系図」には高根沢氏が、宇都宮七代景綱(永仁六年・一二九八没)の弟盛綱の子息泰貞を祖としていることが見える。同時に、泰貞は戸祭・大久保・平出等の祖となっている。『下野國誌』は、江戸時代末期の嘉永三年(一八五〇)に芳賀郡の河野守弘によって著された下野最初の地誌として名高いが、内容に疑問視される部分もある。同系図にはまた、九代公綱の代に「高根沢新右衛門尉藤原兼吉」(薩埵山合戦)の名が見える。
②「益子系図」(『益子町誌』所収)は宇都宮市の益子吉蔵氏蔵のものである。同系図によると、高根沢氏は益子越後前司正宗(永和二年・一三七六没)から派生している。①の宇都宮系図の「高根沢新右衛門尉藤原兼吉」の没後、約二〇年前後のことである。また、観応の擾乱で活躍した益子貞正の項に「高根沢新右衛門尉平兼吉」の名が見える。
③「宇都宮系図別本」(『続群書類従』所収・『群書類従 正編』に続き刊行され文政五年(一八二二)に完了、我が国の古書を収録・合刻した大叢書で信頼性も高い。)によると、やはり宇都宮公綱の項に「高根沢新右衛門尉藤原兼吉」(薩埵山合戦)の名が見え、同じく④「宇都宮正統系図」(宇都宮市高橋英氏蔵)でも公綱の項に「高根沢新右衛門藤原兼吉」の名が見える。
系図では、公綱の代に「高根沢兼吉」の名が見えるが、薩埵山合戦に参加したのは南朝方として活躍した公綱でなく、終始尊氏方についていた子息の氏綱であることは、薩埵恩賞として上野・越後の守護職を得たのが氏綱であることからしても明白である。したがって四本の系図の、公綱の代の薩埵山合戦は氏綱の代の誤りである。また、「兼吉」を「益子系図」では「平」としているが、他の系図からしても「藤原」とみて差し支えないと思われる。
いずれにしろ、これらの系図からすると高根沢氏は宇都宮氏から派生し、その家臣となったが薩埵山合戦以後一時正統が途絶えたのではないだろうか。そうして、のち宇都宮氏と姻戚関係の深い益子氏と結び高根沢家を再興したのではないかと思われる。宇都宮氏から派生し、宇都宮氏の有力家臣である益子氏と関係を深めた高根沢氏は、以後宇都宮氏改易まで行動を共にしている。
11図 『下野国誌』(大正五年復刻版)薩埵山での高根沢氏