地方組織の中でも、とりわけ幕府が重視したのは鎌倉に置いた鎌倉府であった。鎌倉は源頼朝以来、武家政権発祥の地として長く政権の中心地であった。同時に天然の要害を備えた軍事都市であり、政情不安な南北朝の動乱時には足利氏にとっては京都を追われた時の最後の砦的な意味をも持っていた。さらに、発祥の地足利荘を控え父祖代々勢力の基盤をなしてきた地でもあり、鎌倉府はその政治的な重要度において他の地方機関とは一線を画していた。そのため、尊氏は鎌倉府には他の地方組織と違う行政組織を置き、さらに自己の分身たる人物を置きその維持に努めてきた。幕府成立以前にも、尊氏は自身が京に在る時は弟の直義を鎌倉に止め、また建武二年(一三三五)尊氏、直義両者とも西上する時は長男義詮を鎌倉に止めており、早くから鎌倉の地の重要性を認識していた。
鎌倉府はその管轄範囲、任務を「関東十ケ国成敗事」(「雑訴決断所条規」)とされており、常陸・上野・下野・上総・下総・武蔵・相模・安房の坂東八カ国に甲斐・伊豆を加えた一〇カ国が対象地域となっている。また、その職制は幕府に類似しており、鎌倉公方を最高位としその下に補佐役として関東管領、管領の下、評定衆・政所・問注所・侍所が置かれている。その機能として「一、司法権行使、二、警察権行使、三、兵権行使、四、土地処分、五、課役賦課、六、緒役免除、七、関東緒職の任命、八、官途及び偏名(成人時に幼名から変える名)授与、九、神社仏閣に関する監督権」(『関東中心足利時代の研究』渡辺世祐著)が挙げられる。