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鎌倉公方

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15図 鎌倉府の機構


16図 鎌倉公方系統図

 鎌倉府の最高の地位にあった鎌倉公方は関東一〇カ国の統轄者として尊氏の身内の者がその任に当たった。すなわち、貞和五年(一三四九)足利直義と尊氏側近の高師直が不和となり、直義が一時政務から退くこととなると、鎌倉にあった長男義詮が京に戻され代わって次男基氏が高師冬・上杉憲顕等とともに鎌倉に下った。その後、義詮の子孫は代々将軍として幕府を継ぎ、基氏の子孫は鎌倉にあり、公方として関東一〇カ国を治めることとなったが、年月を経るにしたがい鎌倉府は独自性を強め、あるときは幕府と対峙するようになっていった。
 足利基氏(暦応三年~貞治六・一三四〇~六七)は初代鎌倉公方として一九年その地位にあり、対抗する勢力を討ち関東における幕府の地位を固めた。基氏の死後は子の氏満(延文四年~応永五年・一三五九~九八)が跡を継ぎ三二年間在職し、奥羽二力国も支配下に治めた。
 以後、満兼(永和四年~応永一六年・一三七八~一四〇九)・持氏(応永五年~永享一一年・一三九八~一四三九)とその地位は相続されたが、応永二三年(一四二六)関東管領の上杉禅秀が持氏に反し幕府の援軍により鎮圧されるという事件(上杉褝秀の乱)や、永享一〇年(一四三八)には持氏と幕府とが不和となり、争いの結果持氏が倒されるという事件が起き(永享の乱)関東は騒然とした状態が続いた。その後、持氏の遺児成氏(永享六年~明応六年・一四三四~九七)が鎌倉公方となったが鎌倉府内部での争いが依然として続き関東の戦乱は止むことはなく、公方の権威は落ち、ついに康正元年(一四五五)成氏は幕府の命を受けた今川範忠に追われ下総の古河に移ったが(古河公方)、以後も関東の諸豪族を巻き込んだ戦乱が続いた。