観応の擾乱(観応元年・一三五〇)の後、関東では足利直義、上杉憲顕等の上杉勢が一掃され、代わって、鎌倉公方足利基氏、補佐役である執事の畠山国清、平一揆の川越直重、そして新たに上野・越後の守護職を得た宇都宮氏綱等が勢力を伸ばした。基氏は延文三年(一三五八)、新田義貞の子の義興を討ち関東から南朝の抵抗勢力を一掃する等して政情の安定化を図った。しかし、康安三年(一三六一)国清から理由のない所領没収をうけたとする国人たちの訴えにより、基氏が国清を鎌倉から追放するという事件が起きた。この事件をきっかけに、関東では再び新しい動きが起こってくる。すなわち、追放した畠山国清に替わり、基氏は観応の擾乱において直義派であった上杉憲顕を越後から鎌倉府に迎え入れた。この上杉氏関東復帰の動きに対し、宇都宮一族で上野国守護代の芳賀氏の上杉復帰阻止行動、そしてそれに続く宇都宮氏、平一揆による基氏への反乱が起こった。