貞治二年(一三六三)の芳賀氏による反上杉の挙兵は、観応の擾乱後任命されていた越後の守護職を上杉氏に替えられたことに対する怒りであったとされている。数カ月に及ぶ越後での武力対決に敗れた芳賀禅可は、下野に戻り再度反上杉の兵を挙げた。この行動に怒った基氏は八月鎌倉を立ち、武蔵国苦林野で芳賀禅可率いる芳賀一族と激戦を繰り広げ、これを破っている。この合戦で討死、負傷した者の多くが芳賀一族であること、この時宇都宮氏綱は宇都宮城にあり、勢いに乗り宇都宮城へ向かおうとした基氏に対し「禅可カ此間ノ挙動、全ク我同意シタル事候ハス」(『太平記』)と述べていることから、芳賀勢には高根沢氏など宇都宮氏下の他の氏族は参加せず、芳賀一族のみの単独軍事行動であった可能性が強い。
17図 芳賀氏略系図(『下野国誌』より)