この後しばらくの間関東は平静を保つが、一二年後の天授六年、今度は小山義政が乱を起こした。関東管領上杉氏に対する関東豪族の最後の抵抗である小山義政の乱(康暦二年・一三八〇~応永四年・一三九七)は、当初、勢力圏の接する小山義政と宇都宮基綱(一一代)との私闘に端を発したものであり、そのきっかけは両者の地下人(農民等の庶民)による土地の境界争いであった。「此頃小山下野守義政と宇都宮基綱と、水火の如く確執して、合戦に及ぶ。其起りを尋ぬるに、宇都宮が所領の地を、小山が地下人さかいめを争い、百姓三人を打殺しけり」(『鎌倉公方九代記』)とあるように、些細な事件をきっかけに、小山氏と宇都宮氏の全面対決へと進んでいった。両者の軍事的衝突は天授六年(一三八〇)五月一六日に茂原(又は裳原・宇都宮市茂原町一帯)で行われた(茂原の合戦)。小山義政、宇都宮基綱共に自ら出陣しまさに両家の浮沈をかけた攻防であった。この戦いに宇都宮氏は多くの家臣を動員したが、先隊の中に高根沢新左衛門の名が見える(『宇都宮興廃記』史料編Ⅰ・七四七頁)。宇都宮氏に従ってきた高根沢氏はこの時も、主家である宇都宮氏の要請に応え出陣したものと思われる。その他多功・上三川氏等の上三川勢、児山氏(石橋町)、芳賀氏、笠間氏、逆連(面か)氏(河内町)、祖母ケ井氏、横田氏、氏家氏、壬生氏、武茂氏等の名が先隊・後陣に見える。戦いは激しく、小山義政の一族三〇余人の他、兵二〇〇余人が討死に、宇都宮方も当主基綱の他、芳賀氏等一族八〇余人が討ち死にという激戦であった(『花営三代記』)。
この戦いの後、鎌倉府のたびたびの調停を無視して宇都宮基綱を殺害したとして、鎌倉公方足利氏満は関東八か国に義政追討の命を出した。同年八月鎌倉軍は小山城を攻撃、落城させ永徳二年(一三八二)義政は自害し、さらに至徳三年(一三八六)義政の遺児若犬丸が蜂起したが、応永四年自害し、ここに乱は終結した。以後、関東における上杉体勢が確立する。
その後しばらく平静を保った関東は六代将軍足利義教(一三九四~一四四一)、四代公方足利持氏(一三九八~一四三九)のころになると、両者の対立により再度騒然としてくる(永享の乱)。