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その後の高根沢氏

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 こうしてみてくると、高根沢氏は宇都宮氏から分かれ高根沢地内を領有し非常時においては宇都宮氏の要請に従い出陣し、平常時においては地内の人心の把握に努めていたと思われる。この後、『下野国檀那帳』(史料編Ⅰ・七二九頁 伊勢内宮の御師として室町から江戸期にかけ下野国内の檀那を掌握していた佐八氏が、江戸初期に作成した記録)には、高根沢新右衛門・高根沢又右衛門の名が、また天正期(一五七三~九二)の宇都宮氏による多気(田下)山城築城に際しては、高根沢信濃守(上高根沢城主)・高根沢平八郎(下高根沢城主)・高根沢弥八良(同所城主)・矢口筑前守(小和久保(桑窪)城主)・直井淡路守(栗賀嶋(栗ケ島)城主)・野沢若狭守(石居(石末)城主)の名が見える(『宇都宮記』『那須記』史料編Ⅰ・七四九、七五一頁)。これらのことからして、一貫して高根沢氏は主家の宇都宮氏に従い行動していたと推測されるが、宇都宮氏と行動をともにしていたということは、また、宇都宮氏の興廃に高根沢氏もほんろうされることとなる。

18図 桑窪城跡(桑窪)