1図 関東管領上杉氏系図(『集英社版日本歴史9』)
応永一六年(一四〇九)、三代鎌倉公方足利満兼が三二歳で病没し、長子の幸王丸が父の跡をうけて四代鎌倉公方となった。翌年末に元服した彼は、恒例に従って室町将軍足利義持の一字をうけ、持氏と称した。まだ若い新公方持氏の登場に伴って、政局は一挙に不安定となり、鎌倉府内部の政争が激化。のちに持氏と彼を補佐する上杉禅秀の対立として表面化することになる。
禅秀は、三代公方満兼を長く補佐し、満兼の死没により隠退した犬懸上杉朝宗の子。同族の山内上杉氏とともに、鎌倉公方に仕え。文字どおり鎌倉府の柱石といえる存在だった。禅秀は法名で、実名は氏憲、官途右衛門佐。応永一八年から正式に関東管領として、権勢をふるった。犬懸上杉氏は、父朝宗も長い間関東管領の任にあったこともあって、東国領主層の声望もあつく、甲斐・武田氏、下総・千葉氏、上野・新田岩松氏、下野・那須氏、など名だたる領主層たちと姻戚関係にあった。
一方、山内上杉氏も代々の当主が関東管領職に就任し、鎌倉公方と室町将軍とを結ぶかすがいの役割を果たしてきた。禅秀の前任者である山内上杉憲定は、応永一二年から関東管領職にあり、同一八年に辞任している。ただし、どうやらすでに前年の段階で、実質上は禅秀が関東管領の任にあったらしく、この管領交代劇は、当時の鎌倉府政権内部の政争の影響とみられる。
ポイントとなるのは、満兼の弟で、持氏には叔父にあたる足利満隆の動きである。彼は持氏の公方就任を不満として、応永一七年八月にクーデター騒ぎを起こしており、持氏はしばらく山内にある上杉憲定邸に難を逃れた。その後間もなく、禅秀は上杉憲定に代わって関東管領の職権を行使しはじめる。たぶん、この一件で足利満隆と結んだ禅秀が、政敵上杉憲定を追い落とし、まだ若い新公方持氏のもとで関東管領として実権を掌握したのであろう。
しかしながら、足利満隆・上杉禅秀らの権勢も長くは続かなかった。憲定の子、憲基の復権が進む一方で、持氏自身、自らの意志で政権運営に意欲的に取り組みはじめたのである。持氏と足利満隆・上杉禅秀との衝突は、ある意味で時間の問題だったかもしれない。