2図 鎌倉公方御所跡(神奈川県鎌倉市)
応永二二年(一四一五)四月、鎌倉府の評定の席で、ある地方武士の処遇をめぐって、持氏と禅秀が対立。結局、一週間後に禅秀は管領の職を辞任し、山内上杉憲基が新たに管領となった。お互いに和解を模索することなく、わずか一週間たらずの間での管領辞任は異例であり、両者の対立の根深さがうかがえる。
同年七月、両者の緊張は高まり、東国各地から集まってきた軍兵で、鎌倉は一時騒然とした状況となった。けれども、禅秀方は暴発を思いとどまり、その後事熊はようやく鎮静化したかに見えた。しかし、それはあくまで表面上のことで、水面下では禅秀方の巻き返し策が着々と進められていた。
準備は整った。翌二三年一〇月二日、通常鎌倉に居住する東国の有力領主層の多くが、領地支配の都合などで本国に帰った隙をねらって、禅秀方は挙兵。持氏のいる御所へと急いだ。「禅秀病む」との報告を受けていた持氏には、まさに寝耳に水。持氏は命からがら御所を脱し、上杉憲基邸へと移った。しかし、持氏方はその後も劣勢を挽回できず、結局持氏は鎌倉府の管轄外である駿河に逃れた。禅秀方の目論見は功を奏し、一時的にほぼ関東の制圧に成功したのである。
しかしながら、禅秀方にとって決定的な計算違いがあった。幕府が方針を持氏支援に決し、介入してきたのである。これに伴い、情勢を観望していた東国の領主層の多くは持氏方に立ち、形勢は逆転する。各地の戦いで敗れた禅秀らは、翌年の一月一〇日、鎌倉で自刃。まことにあっけない最期であった。
とはいえ、禅秀らの自刃ですべてが解決したわけではなく、依然東国の各地には禅秀の残党が残り、以後持氏は彼らの討伐に追われることになる。本来、幕府の御家人である彼らを討伐することは、幕府にも疑心を抱かせ、幕府との対立も深刻化していった。