応永一四年(一四〇七)、公方満兼と前後するように、宇都宮氏の当主満綱も鎌倉で病没した。享年三一歳。新たに家督に擁立されたのは、下野の北東部武茂荘を領する一族武茂綱家の子で、彼は嗣子のなかった満綱の女婿となり元服後は持綱と名乗った。持綱の「持」の一字は、宇都宮氏の先例に従い鎌倉公方持氏から拝領したものであろう。持綱は応永一八年に宇都宮氏代々の尊崇があつい一向寺や興禅寺に対し寺領を寄進しており、このころから名実ともに宇都宮氏当主としての活動を開始したことがわかる。翌年の今宮明神の祭礼の席にも新当主持綱の姿があった。
当時、室町将軍の信任あつかった醍醐寺座主満済の日記『満済准后日記』には、持綱関連の記述が散見され、持綱が京都、室町将軍とも強いコネクションをもっていたことがうかがえる。そもそも、宇都宮氏は粟田関白藤原道兼の子孫を自認しており、文化的にも、また先祖の墳墓の地という点で宗教的にも京都への憧れがつよかった。加えて、南北朝の動乱に際しては、鎌倉府の権限が拡大強化される状況下でもなお室町将軍家に対し変わらぬ忠節を尽くし、曾祖父氏綱は応安三年(一三七〇)、紀州在陣中に没したという。氏綱の場合は、実名の「氏」の一字を足利尊氏から拝領したことに象徴されるように、尊氏個人に対する忠誠心に負うところが大きいが、宇都宮氏が室町将軍家の御家人であるというプライドはその後も連綿と受け継がれていたものと考えられる。したがって禅秀の乱に際し持綱は、幕府との連絡を密にし、幕府の命に従っていち早く持氏支援に乗り出すとともに、周辺領主の誘引工作にも一役買っている。このためこれらの功績によって、乱後持綱は上総守護に就任する。就任までには紆余曲折があったものの、幕府の強い意向によってそれは実現をみた。その後、禅秀の残党討伐をめぐり幕府と鎌倉府の間には早くも不協和音が生じつつあり、幕府は親幕府的な東国領主層の保護・育成に乗り出した。これを京都御扶持衆と呼ぶ。下野では、宇都宮持綱や那須氏、そのほか常陸の山入佐竹・大掾・小栗氏、甲斐の武田氏などが知られる。彼らは鎌倉府治下の東国にあって幕府に無二の忠節を励む領主層であり、反面、鎌倉府には反抗的で、褝秀の残党も含まれていた。以後彼らの存在が幕府と鎌倉府の関係悪化の一因ともなった。
応永二九年、常陸の小栗満重が反鎌倉府の兵を挙げた。満重は禅秀の残党であり、その後の鎌倉府の厳しい処罰に対する不満からの挙兵であった。これに同じく京都御扶持衆である持綱や桃井・佐々木・真壁氏らが加わり、翌三〇年には彼らと持氏率いる鎌倉府軍との間で激しい合戦が繰り返された。結局、小栗城は落城し、持綱も没落。持綱は奥州めざして落ち行く途中、一族の塩谷氏に討たれた。宇都宮に残された嫡子藤鶴丸(のちの等綱)も常陸の山入佐竹氏を頼り、やがて奥州へと亡命した。以後しばらくの間、宇都宮城は、親鎌倉府の立場にたつ宇都宮伊予守らの牛耳るところとなる。その後も京都御扶持衆と鎌倉府軍との死闘は、下野北部の那須地方や常陸などで続き、鎌倉府の動揺は容易に収まらなかった。