3図 白河城跡(福島県白河市)
白河は、広大な陸奥国への表玄関であり、勿来関・念珠関とならぶ奥羽三関のひとつ、白河関の所在地として知られる。白河関は、歌枕として、古来数々の和歌に詠みこまれてきたが、それも白河関が人びとに与える境界の地のイメージに負うところが大きい。
境界の地白河を支配したのは、小山氏の一族結城氏で、白河に下向した結城祐広の子孫は地名から白川氏を称している。白川氏は、有力一族の小峰氏とともに、南奥州を中心に一大勢力を築くが、一方で地理的な条件もあって下野の国人とも密接な関係があった。
たとえば、上杉禅秀の乱の際、鎌倉公方足利持氏方への帰順を勧める駿河守護今川範政の書状は、宇都宮持綱のもとから届けられている。室町前期の白川氏の当主氏朝は、実は那須資朝の子で、所領が隣接する那須氏とは以後も緊密な関係が続いた。
享徳の乱で古河公方足利成氏に敗れ、宇都宮を没落した等綱は結局帰宮はかなわず、白川直朝の庇護下で没している。彼の遺骸は白河の関川寺に葬られたと伝えられる。また、一六世紀中ごろ、天文年間の宇都宮氏の内訌に際し、当主俊綱に討たれた重臣芳賀高経の遺児高照も、やはり白河に亡命し、しぼらく白川晴綱の庇護をうけた。
境界の地白河は、下野武士にとっては捲土重来を期す、政治亡命の地でもあった。