4図 太田の田園風景
一五世紀の初頭、応永年間も中期を過ぎると、公方持氏の登場と軌を一にするようにして動乱の時代を迎える。宇都宮氏もこれに巻き込まれ、宇都宮氏支配下の村々も当然このような政治的混乱と無縁ではありえなかった。
一方、二毛作などの農業技術の進展とともに、村落の生産力は徐々に向上しつつあり、そのようななかで生まれた在地の富を集積したのか、有徳人と呼ばれる人びとであった。彼らは、村落の有力者であり、金融や商工業などを通じて富を築いた富裕者でもある。たとえば、氏家郡の村々に課された今宮明神の祭礼の頭役のうち、下頭と称される負担は村々の有徳人が負担している。その背景には、富裕者である以上、相応の経済的負担も引き受けるべきだという、中世的な倫理観があった。
当該期の『今宮祭祀録』を見ると、応永九年(一四〇〇)から同二〇年までの記述が現存しているが、九年が太田の彦清次、一〇年は不明で、一一年からは八木の紀五郎入道、飯岡の六郎、大窪(大久保)の平三郎、舟生(船生)の六郎三郎、美女木の「法セン」、石末の弥次、太田の法光、驚沢の浄願、上平の「けいくわん坊」、下阿久津の孫八といった具合である。太田では、彦清次と法光といった二人の有徳人があがっているように、ひとつの村にも当然何人かの有徳人がいた。また、有徳人のなかには法名を名乗るものが多いのも、興味深い。
注目されるのは応永一九年の上平村の場合で、当初、「けいくわん坊」という有徳人に下頭を課したところ、「けいくわん坊」は何らかの事情で下頭を辞退。結局、下頭は「郷催」となり、頭人は「惣百姓中」で勤めている。このことから、すでに室町時代前期の段階で、東国の村落でも「惣百姓中」と称されるような共同体が形成されていたことがわかる。「惣百姓中」の内実は不明ながら、「郷催」とある点で、「惣百姓中」が村落を代表する存在だったことがうかがえる。
5図 文挾の集落風景