氏家郡の村々には、今宮明神の祭礼の頭役である氏家頭のほか、宇都宮大明神の下頭役が課されることもあり、これを宮下頭と称した。氏家頭の場合は、基本的に村(郷)に課され、その村の管理・支配にあたる給人が頭人となった。
『今宮祭祀録』によれば、応永九年の氏家頭は河内村、頭人は河内村の給人岡本将監入道で、以下、上石礎(石末)郷と若色掃部助、平田郷と今宮明神禰宜右衛門太郎頼信、舟生郷と舟生修理亮、玉尾(玉生)郷と舟生因幡守、大麻郷と大麻入道、文挾郷と高根沢六郎、金枝村と神長入道、飯岡郷と舟生右衛門次郎、栗島郷と代官小次郎、荊沢郷と代官滝九郎、上阿久津郷と阿久津五郎と続く。これらが、それぞれの村々の給人であった。
小次郎・滝九郎が代官を務める栗島郷・荊沢郷は、当時宇都宮氏の御料所(直轄領)であった。また、舟生郷をはじめ、玉尾(玉生)郷・飯岡郷の給人は舟生一族であり、舟生氏が氏家郡一帯に勢力を有していたことがうかがえる。そして、彼ら給人や村落にとって、氏家頭を勤めることはたいへん名誉なことでもあった。たとえば、文挾郷の給人高根沢氏の場合、本来応永一二年が氏家頭の年であったが、まだ「当給人拝領イクホドモナキニヨッテ」、「御懸合」、つまり話し合いのすえ辞退し、舟生郷の舟生修理亮が頭人を勤めている。このため、翌年も文挾郷は氏家頭を「懇望」したが、皮肉にも前年の一一月に給人の高根沢宗九郎が死去したため、この年も涙を飲んだ。ようやくその二年後、応永一五年に文挾郷と給人高根沢六郎に氏家頭が巡ってきた。この年も、当初は荊沢郷のはずだったが結局は「御託宣」、つまり今宮明神の神意によって実現した氏家頭であった。『今宮祭祀録』もこの顚末を「異例」とするが、その背景に文挾郷と給人高根沢氏の熱意があったことはいうまでもない。