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関東武士の抗争

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 禅秀の乱以降続いていた鎌倉府の動揺は、年号が応永から正長、そして永享に変わってもいっこうに収まる気配を見せなかった。かえって、室町御所義持が没し、新たに義持の弟の青蓮院義円が後継者となったことによって、両府の対立は深刻化する。義円は、還俗して義宣、間もなく改名して義教と称した。正長二年(一四二九)三月、義教は征夷大将軍となり、名実ともに室町将軍として実権をふるい始める。これに対し、将軍位に野望をもっていた持氏は、将軍就任を祝う慶賀使を京都に送らなかったばかりか、年号が正長から永享に変わっても改元に従わず、正長の年号を用い続けた。加えて鎌倉府では、京都との平和を願う関東管領上杉憲実と持氏との対立が表面化し、永享九年(一四三七)とうとう両者の武力衝突に発展する。もちろん、義教がこれを見逃すはずはなく、早速憲実支援のために軍勢を派遣(永享の乱)。将軍義教の介入によって、合戦の勝敗も決した。敗れた持氏は剃髪し、憲実も持氏の助命を嘆願するが、義教は許さず、翌年鎌倉永安寺で自刃。鎌倉府は主を失った。
 しかし、持氏が没してもその与党は依然関東に多く、永享一二年、彼らは持氏の遺児春王丸・安王丸を擁し北関東で挙兵。下総の要衝結城城に籠もった。これに対する幕府の対応は早く、大軍を続々と結城に下し、こののちほぼ一年にわたり結城城をめぐって攻防戦が繰り広げられた(結城合戦)。翌年四月、衆寡敵せず、結城城は落城。ようやく平和が訪れたかに見えた矢先、今度は将軍義教が家臣に暗殺され(嘉吉の乱)、ふたたび関東にも暗雲がたちこめる。
 結局、混乱する関東を安定させるには、鎌倉府の再興しかなく、文安四年(一四四七)信濃にあった持氏の遺児が、鎌倉府に迎えられた。彼は、将軍義成(のち義政と改名)の一字をうけ、成氏と称した。新公方成氏の登場に伴い、これまで雌伏を余儀なくされていた旧持氏派の人びとも大挙して政権に復帰。鎌倉府は新たな対立の火種を内部に抱え込むことになった。当時成氏を補佐したのは、関東管領の上杉憲忠で、憲忠は憲実の子であった。早くも宝徳二年(一四五〇)に、上杉憲忠に仕える重臣の長尾氏らが成氏を襲い、成氏は一時江の島に逃れている。そして享徳三年(一四五四)には成氏が上杉憲忠を謀殺。以後関東では、成氏方と幕府の支援する上杉方に分かれて、合戦が繰り返される(享徳の乱)。その際、成氏は鎌倉を離れて、下総古河に拠点を移した。したがってこのあと成氏の家系は、古河公方と称され、依然北関東を中心に勢力を保ち続けた。

9図 室町将軍家と鎌倉公方家