10図 結城城跡(茨城県結城市)
永享の乱、そして結城合戦は下野にも大きな傷痕を残した。永享の乱の際、持氏方として活躍した下野の国人領主に長沼・茂木・那須氏らがおり、たぶん宇都宮伊予守もそうだったとみられる。彼らは、一族間の対立に加え、今回の持氏の敗北によって没落の危機に直面していた。その矢先に結城合戦が起こる。彼らのなかには結城城に籠城し、敗死したものもいるが、幕府方として攻城にあたり、ようやく没落を免れたものも少なくない。
その後成氏の鎌倉公方就任により、彼らの復権も進みつつあったが、間もなく享徳の乱が始まり、ふたたび下野は戦乱のちまたとなった。享徳の乱では、下野の各地で激しい合戦が繰り広げられ、下野の領主たちは成氏方か上杉方か、どちらに就くか厳しい選択を迫られた。勝敗的には一進一退が続いたものの、結局、成氏が古河を中心とする支配体制を構築していくのに伴い、下野の大勢は成氏方となった。なかでもその際、小山氏と結城氏は、古河公方権力を支える車の両輪のような役割を果たした。
また、下野北部の那須氏では、庶流の五郎家、越後守系那須氏が成氏が劣勢の状況下においても忠節を励み、成氏を後ろ楯に最終的には惣領で黒羽を本拠とする太郎家、肥前守系那須氏を圧倒。新たに烏山を拠点に勢力を拡大する。このためこののち那須氏は、黒羽の惣領家が上那須。烏山の庶子家が下那須と称されるようになる。そのほかにも享徳の乱を通じて一族間の対立に勝ち、若しくは新たに拠点を移して、他氏の介入を許さない一円的な支配を実現した領主に、佐野・茂木・皆川などの諸氏がいる。
一方、このような混乱のなかで、没落し去った領主層も一、二にとどまらない。たとえば、下野南部の長沼氏の場合、永享の乱までは親持氏派だったが、結城合戦では幕府の軍勢とともに結城城の攻城にあたっている。その後も成氏とは一線を画していたようで、享徳の乱以降の動静はようとして知れない。たぶん享徳の乱で没落してしまったのであろう。享徳の乱が下野に残した影響は想像以上に深く、大きい。