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宇都宮氏の衰退

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11図 武茂泰宗像と武茂城跡(馬頭町)

 応永三〇年(一四二三)、父持綱の没落に伴い奥州に亡命していた等綱は、永享年間にようやく宇都宮城に帰城する。これは幕府と鎌倉府の和睦により実現したものであった。等綱は永享の乱では幕府方として活躍。結城合戦にも従軍し、軍功をあげている。成氏が鎌倉公方に就任したのちは、鎌倉にあって成氏に仕え、上杉憲忠の家宰長尾氏らが成氏を襲った江の島合戦では成氏方として活躍した。しかし、享徳の乱勃発後は、幕府の命に従い、幕府の支援する上杉方に立った。すでに述べたように、下野には成氏方の領主層が多く、間もなく等綱は軍事的に窮地に陥る。
 宇都宮城では、まず長子明綱が重臣芳賀伊賀守を伴って成氏に降伏し、結局等綱も支えきれずに降参。入道剃髪し、道景と号した。その後も等綱は、上洛して将軍足利義政に拝謁するなど、依然活発な活動を見せるが、下野の大勢は変わらず、寛正元年(一四六〇)奥州白河で没した。享年四一歳。
 一方、等綱入道後、家督を継いだ明綱は、基本的には成氏方として行動する。しかし、無二の成氏方である下那須氏とは領地をめぐって深刻な対立関係にあり、実情は複雑であった。また、まだ若い明綱を後見し、宇都宮氏の実権を掌握していたのは、芳賀伊賀守であり、伊賀守には幕府からも誘いの手がのびていた。そのような状況下で、明綱は寛正四年に病没する。享年二一歳。
 続いて宇都宮氏の家督に擁立されたのは、等綱の次男正綱で、彼は祖父持綱の出た武茂氏を継ぎ、武茂六郎を称していた。彼は一時幕府に内応するが、その後ふたたび成氏方となり、文明九年(一四七七)成氏に従って参陣していた上野国川曲の陣中で没する。享年三一歳。明綱、正綱と相次いで当主が早死にするなど、宇都宮氏にとって苦難の時代がしばらくの間続いた。