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束の間の平和

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 『今宮祭祀録』には、文安三年(一四四六)~宝徳二年(一四五〇)、享徳元年(一四五二)~同三年までの記述が残る。享徳三年末から享徳の乱は始まるので、享徳四年以降しばらくの間『今宮祭祀録』の記述が欠けているのは、たぶん享徳の乱の影響と考えられる。すでに見たように、享徳の乱は宇都宮氏に深刻な影響を及ぼしており、当然その影響は宇都宮領に暮らす人びとにも及んだ。
 享徳の乱が起こる前年、享徳二年の今宮明神の祭礼の席には、「勝綱御出仕、同若君御出仕」と『今宮祭祀録』にはある。問題はこの「勝綱」だが、応永一九年の持綱の前例からみて、この場合も宇都宮氏の当主であろう。享徳の段階では等綱が当主なので、「勝綱」は等綱の誤記とみられる。とすると、「同若君」とあるのは、まだ幼い明綱のことであろう。二年後には、等綱・明綱父子は享徳の乱に巻き込まれ、政治的な立場をめぐって袂を分かつことになるが、今宮明神の華やかな祭礼の席にあった二人はまだそれを知る由もなかった。
 『今宮祭祀録』によると、この年の一一月に今宮明神の造替が行われ、その四年前、文安五年には、明神の平中門が建立されたという。永享の乱、結城合戦が終わったあとの束の間の平和であり、享徳の乱勃発直前の嵐の前の静けさでもあった。
 『今宮祭祀録』によれば、文安三年の氏家頭は玉生郷、頭人は玉生郷の給人玉生権太夫式部尉、下頭は土室の浄幸入道で同様に以下、四年が平田郷・岡本修理亮・西宿の平次郎、五年が飯岡郷・舟生修理亮入道・八木の浄幸と続く。翌宝徳元年は、大麻村・大麻入道・風見の浄賢、二年は金枝郷・神長能登入道・上平の彦七で、宝徳二年の場合は、祭礼の直前になって何らかの事情から、頭人が神長右京助代官に変更されている。
 宝徳三年については記述がなく、翌享徳元年は文挾郷・高根沢宗衛門尉・美女木の平三郎、二年は舟生郷・神長土佐守・舟生の道久、三年は上阿久津郷・阿久津五郎で、下頭は不明である。そのほか、宇都宮明神の下頭が、文安五年に文挾郷・高根沢宗衛門尉に、享徳二年には下阿久津郷・大長井八郎に賦課されている。文挾郷の場合は、わずか五年間で二度の頭役を勤めたわけで、その負担は決して軽くなかったと思われる。

12図 今宮神社社頭(氏家町)