頭役は不浄を嫌うため、たとえば文挾郷の場合のように給人の死去が原因で、頭役を免じられる場合もあった。そして神の意思は神罰として下るだけではなく、神官を通じて「御託宣」という形でも表現された。
また、享徳二年閏七月二六日の夜には、「大風大水」があり、周辺の村々に大きな被害を及ぼしたとみられる。今で言う台風の影響であろう。『今宮祭祀録』には、自然災害に関する記述も多く、関心の高さがうかがえる。通覧してみると、だいたい七・八月に「大風大水」の記述は集中しており、それは作物に被害を与えたばかりか、ときには洪水や土砂崩れとなって多くの人命を奪った。
時代は下るが永禄六年(一五六三)は七月二九日から大雨が続き、とうとう八月一日の昼ごろには鬼怒川が洪水し、沿岸の山田郷では三〇〇人近くが「岩打ち」にあったという。「岩打ち」とは、洪水の濁流に呑み込まれたという意味であろう。洪水の被害は下野にとどまらず、下流の武蔵・下総国などにも及び、多くの死者が出た。また同八年七月二三日の夜半ごろには、飯岡郷で土砂崩れが起こり、給人の飯岡修理亮をはじめ八人が土砂に呑み込まれた。土砂崩れによって飯岡郷や上麻村は「平地」になったという。人的被害ばかりでなく、家屋や耕地への深刻な被害がうかがわれる。この土砂崩れも時期的にみて、大雨の影響と考えられる。
そのほかにも「長雨」・「風損」などの自然災害があり、加えて戦乱などの人的災害が重なり、村々に暮らす人びとにとって中世という時代はたいへん過酷な時代であった。
13図 勝山城から見た鬼怒川(氏家町)