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四分五裂の関東

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 関東に享徳の乱が起こって間もなく、京都でも応仁の乱が起こった。これは八代将軍義政の後継者争いに、将軍を支える有力守護大名の対立が絡んだもので、京都を中心に約一一年間にわたって内乱が続いた。内乱後、室町幕府の勢威は急速に衰え、九代将軍義尚は敵対する近江守護六角高頼征討のため、近江に在陣中に病没。そのあとを継いだ従兄弟の義稙(初名義材)も、彼を補佐する管領細川政元のクーデターによって、明応二年(一四九三)に将軍位を追われた(明応の政変)。政元により新たに一一代将軍に推戴されたのは、八代将軍義政の弟政知の子で、仏門にあった義澄である。しかし実権は彼にはなく、永正四年(一五〇七)に政元が暗殺されると幕政は混乱。翌年には義稙が再び入京し、義澄は近江に逃れた。義澄は三年後、近江で失意のうちに没するが、大永元年(一五二一)末に今度は義稙が管領細川高国との対立により京都を出奔。義澄の子義晴が高国によって一二代将軍に推戴された。義晴の将軍就任後も、細川一族の内訌や家宰三好氏の台頭で幕政は安定せず、果てしもない対立抗争が続くことになる。
 同じころ関東も、支配体制は四分五裂の状態にあった。古河公方足利成氏に対抗するため、関東に下向した将軍義政の弟政知は、結局鎌倉に入れず、伊豆堀越にとどまり、堀越公方と称された。彼の影響力は北関東にはほとんど及ぼず、名目的な存在のまま延徳三年(一四九一)に没した。代わって伊豆を握ったのは北条早雲で、明応四年には小田原城を奪取している。氏素性さえはっきりしない彼の登場は、下剋上の世、戦国時代の到来を見事に象徴している。

1図 堀越御所跡(静岡県韮山町)